アランデル城 ( Arundel Castle ) |
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別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: ウィリアム1世か | |
交通 : アランデル駅徒歩15分。 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1067年ないし1068年に、ウィリアム1世(征服王)によって対仏防衛の目的で築かれた といわれる。同時に、ロジャー・ド・モントゴメリがアランデルに封じられた。ロジャーは、 ウィリアム1世の従兄弟にあたる。ロジャーの死後、アランデル城はウィリアム1世の四男 でイングランド王となったヘンリー1世が継承した。 1135年にヘンリー1世が死去すると、遺言によりヘンリー1世の後妻アデライザ・オブ・ ルーヴァンが城主となった。アデライザは1138年にウィリアム・ドービニー(ド・アルビニー とも)と再婚し、ウィリアムは後に初代アランデル伯に封じられた。 1176年にウィリアムが没すると、城はイングランド王ヘンリー2世が接収した。ヘンリー 2世と、その子リチャード1世(獅子心王)の代にかけて、城は大規模な増改築を受けた。 アランデル伯家はドービニー家の子孫が世襲していたが、1243年にヒュー・ドービニーが 嗣子なく没すると、ヒューの妹婿のジョン・フィッツアランがアランデル伯とアランデル城を 継承した。 1326年、第9代アランデル伯エドマンドは、イングランド王エドワード2世と対立して挙兵 した王妃イザベラの一派に捕えられ、拷問の末処刑された。これによりアランデル伯位は 一時消滅したが、1330年ないし翌31年に、エドマンドの子リチャードがアランデル伯位を 復活させた。 第19代アランデル伯ヘンリーが1580年に亡くなると、フィッツアラン家の男系は絶え、 アランデル伯はヘンリーの娘メアリーとトマス・ハワードの子フィリップ・ハワードが継いだ。 フィリップは、英国国教会が確立しつつあるなかでカトリックの信仰を棄てなかったため、 1585年に女王エリザベス1世によってロンドン塔に幽閉された。1589年にはアランデル 伯位を剥奪され、1595年に幽閉されたまま赤痢で病死した。アランデル伯位は、1604年 にフィリップの息子トマスによって取り戻された。トマスは、後にフィリップの父トマスの代 に剥奪されたノフォーク公の称号も回復している。 19世紀半ばごろの当主ヘンリー(第14代ノフォーク公兼第13代アランデル伯)の代から、 姓をフィッツアラン=ハワードと称している。現在も、アランデル伯を兼ねるノフォーク公の 居城の1つである。 <手記> アランデルはアラン川の下流に位置する町で、アランデル城はアラン川に臨む高台の 上にあります。城下町は城の南と西に広がっていて、北は峰続きになっています。東側 一帯は現在も葦野原となっていて、かつては低湿地だったものと思われます。 今もノフォーク公の居城の1つで、麓から見上げた姿は何とも壮観です。部分的に公開 されているのですが、入城料が30ポンド近かったのでびっくりしました。さすがイギリスと いった価格設定です。結局、連れて行ってもらった友人と協議して、中に入るのは諦め ました(笑)。 というわけで外周しか回っていないのですが、遠くから眺めるだけでも楽しめる城だと 思います。こんな大きな城を個人で世襲で持っているというのも、さすがイギリスという 感じですね。 |
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北東の湿地帯から城を望む。 | |
南側入り口の城門。 | |
西側城門前から望む。 | |
南側、アラン川に架かる橋から望む。 | |
アランデル城下町のようす。 |