朝立城(あさだつ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 宇都宮道信
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR予讃線八幡浜駅から車で25分


       <沿革>
           『日本城郭大系』によると、初代城主は宇都宮備前守道信とされる。ただし、出典とされる
          『神教朝立合戦記』の史料価値が少ないとして、『大系』では留保を加えている。
           同書によれば、道信は後に姓を厚朴(こうぼく)に改めたとされる。天正三年(1575)、5代
          城主定信は西園寺家臣松内権太夫景連に攻められ、定信夫妻は自害して落城したと伝え
          られる。その子春信は、同五年(1577)に景連を討って朝立城を奪還したものの、土佐の
          長宗我部元親によって攻め滅ぼされたとされる。


       <手記>
           地福寺裏手に突き出た峰先が、朝立城跡とされています。寺から登るか、西側の柑橘畑
          の農道のヘアピンカーブ部分から、城域に入ることができます。ただし、ヘアピンカーブから
          行く場合は、墓地の向こう側の道なき斜面を下りなければなりません。
           峰の東側に「杖突き様登り口」という看板があり、それをなぞって登ると二重の堀切跡と
          みられる地形に行き当たります。登山道によって分断されているものの、下は竪堀状に
          落ち込んでいて、これが城の遺構であればなかなかの規模といえるでしょう。
           墓地と堀切に挟まれたピークが主郭とみられますが、こちらは藪がひどくて1歩も入れそう
          にありません。堀切の向こうに、杖突き様とみられる小さなお社があります。お社の周囲は
          いくつかの露岩があり、そのなかの1つは天然の岩の門を形成しています。他方で城砦と
          しての造作は見当たらず、ここは城外でつとめて信仰の場だったものと思われます。
           先の看板から今度は下方に向かうと、2段の平場があり、小さな花の園地となっています。
          おそらくこれらは削平地を利用したものとみられ、もし墓地も腰曲輪を転用したものとする
          なら、朝立城は主郭を含めて4段の曲輪から成っていたものと推察されます。下段の平場
          が最も広く、ここは春になると地元の人が集まる隠れた桜の名所なのだそうです。長椅子
          がいくつか置かれ、斜面側には神社が祀られています。
           城主の厚朴氏(宇都宮氏)については、実在したかどうか私には分かりかねます。実在
          したとすれば、定信から5代前の道信は、伊予宇都宮氏初代宇都宮豊房の次代か次々代
          の人物と考えられます。諱が道信であったかどうかはともかく、豊房が豊前宇都宮氏から
          の養子とされる点を鑑みれば、九州との連絡拠点として三瓶の港に一族を配したとしても、
          おかしくはないのかなと感じます。
           ちなみに、朝立の読みは「あさだつ」ですが、『大系』ではばっちり「ち」となっていました。
          わざととは思えないので、うっかりミスなのでしょうか^^;

 朝立城跡近望。
杖突き様登り口の看板。 
これを見つけるのが肝心です。 
 二重堀切と思しき地形。
山上側から。 
竪堀状に落ちているようすが分かります。 
 背後から主郭を望む。
杖突き様のようす。 
 杖突き様付近の露岩。
 ここは城外と思われます。
杖突き様付近からの眺望。 
 墓地から主郭斜面を見上げる。
墓地下1段目の平場。 
腰曲輪跡か。 
 2段目の平場。
 小さな桜の名所だそうです。
2段目の平場に祀られている神社。 


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