跡部屋敷(あとべ) | |
別称 : 跡部氏陣屋 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 跡部正次 | |
遺構 : 不明 | |
交通 : 小田急線本厚木駅よりバス 「中愛名」バス停下車 |
|
<沿革> 旗本跡部氏の屋敷跡とされる。跡部氏は小笠原氏の庶流で、甲斐武田氏の重臣として 仕えていた。天正十年(1582)に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、同年中に本能寺の 変が起こると、武田旧臣の多くが徳川家康に仕えた。そのなかに、跡部茂右衛門正次が あり、同十八年(1590)に家康が関東へ移封となった際、正次は愛甲郡内に150石を与え られた。跡部氏というと、甲斐守護代として権勢をほしいままにした跡部明海や、武田勝頼 の側近跡部勝資らが有名であるが、正次の跡部一族の系図における位置については定か でない。 『新編武蔵国風土記稿』の愛名村の項に、「村の北にあり 今陸田広三段許となりたれど 土手の形残れり」とある。ただし、現在その位置については定かでない。 <手記> 跡部屋敷の位置については、前述のとおりはっきりしていませんが、有力とされているの が諏訪神社および妙昌寺周辺です。このあたりは、愛名村におけるもっとも枢要なポイント といえ、陣屋が設けられるに足る地勢ではあります。妙昌寺の寺伝によれば、同寺の伽藍 は安永三年(1774)に焼失し、その後跡部正辰によって復興されたとあります。 諏訪神社の本殿下には境内の平坦地があり、隣の妙昌寺境内と同一平面として続いて います(ただし、両者の間には妙昌寺住職の居宅があり、行き来することはできません)。 この平面を屋敷跡とみることは可能なのではないかと思います。ただ、『記稿』に「陸田」と ありますが、神社や寺の境内を畑地にするものかどうか、少々疑問です。 また、これより麓にあったとすると、水田ではなく畑に転用されているのは不自然という 感じとなります。そうなると、『日本城郭大系』で指摘されているように、諏訪神社や妙昌寺 のある尾根のもっと先端付近だったのではないかという推測は、説得力を持つように感じ られます。いずれにしても、今となってはなかなか屋敷の存在をうかがうのは困難な状況 となっています。 |
|
諏訪神社。 | |
神社本殿下の平坦地を見下ろす。 |
|
妙昌寺。 |