阿津賀志山防塁(あつかしやま)
 別称  : 阿津賀志山二重堀
 分類  : 防塁
 築城者: 藤原泰衡
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 東北自動車道国見ICから車で10分


       <沿革>
           文治五年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏攻めの兵を挙げると、藤原泰衡は庶兄・国衡を大将と
          する2万の軍勢に阿津賀志山防塁で迎え撃たせた。防塁の規模を鑑みると、それ以前から奥州
          防衛の拠点として築かれていたものとみられるが、詳しい経緯は不明である。
           2万5千余といわれる関東勢は八月七日に国見駅へ達し、その夜に畠山重忠が人夫衆に鋤鍬
          で土砂を運ばせて堀を埋めさせた。翌未明、重忠軍は国衡の副将・金剛別当秀綱と合戦に及び、
          秀綱は防塁を突破されて木戸口へ退いたとされる。
           十日に総攻撃が行われ、奥州勢も奮戦して大激戦となったが、前日夜から宇都宮氏の郎党が
          国見北西の鳥取峠(現在の小坂峠)から大きく阿津賀志山を迂回して国衡陣の背後を奇襲する
          と、奥州勢は混乱に陥った。秀綱とその子・下須房太郎秀方は討ち死にし、国衡は出羽へ逃れ
          ようとしたが、刈田郡で捕捉され、和田義盛や大串重親に討たれた。
           この一戦で奥州藤原氏は組織的な抵抗が困難となり、宮城野の鞭館に陣を布いていた泰衡
          は、敗報に色を成して撤退した。その後、阿津賀志山防塁跡が再び防御施設として利用された
          のかどうかは定かでない。


       <手記>
           奥州合戦の主戦場として名高い阿津賀志山防塁は、比高200mほどの厚樫山(阿津賀志山/
          国見山)と阿武隈川を結ぶ4km弱のラインに構築されています。もちろん全でではなく断続的では
          あるものの、12世紀の、それも街道筋の城塁跡としては驚異的なほど残っており、多くが国史跡
          に指定されています。最も見学しやすいのは国道4号から北と、南端のあつかし千年公園の部分
          でしょう。どちらも二重堀と土塁のようすが長々と見て取れます。
           あつかし千年公園南側の滝川の流路が当時の阿武隈川本流であったとみられ、『吾妻鏡』には
          堀に「逢隈川」の水を引き入れていたとあります。ただ、この点は『日本城郭大系』にあるとおり、
          防塁の最下方に阿武隈川が位置している以上、その水を引き上げるのは技術的に不可能です。
          よしんば堀に水が張っていたとしても、それは上手の阿津賀志山方面から引き込んだものでしょう
          し、それでも防塁全体を水濠とするのは地形的に無理であったと拝察されます。また、上の緑点で
          示した箇所には防塁の始点があります。現状はいささか藪ではっきりとは確認できないのですが、
          せっかくですから両端は押さえておきたいところです。
           さて、阿津賀志山の戦いは3日間にわたって繰り広げられましたが、防塁自体は上述のとおり、
          初日のうちに破られてしまっています。こうした長城系の防塁というのは、計画は容易なものの、
          いざ守るとなるとどの1点も破られてはならず、逆に攻め手はどこか1か所でも突破口を開けばよい
          ため、古今東西あまり効果を発揮した例は少ないように思われます。歴史のifですが、もし義経が
          奥州軍の総大将を務めたとしたら、防塁を築いて専守防衛などとはいわず兵力と地の利を活かし
          て、積極攻勢に出ていたのではないかな、などと考えたりしました。

           
 国道沿いの案内板。
国道北側の土塁と堀跡。 
 同上。
奥州街道旧道沿いの説明板。 
 防塁始点の案内板。 
防塁始点のようす。 
 森山地区の防塁説明板。
森山地区の堀と土塁。 
 同上。
土塁の開口部。 
当時の造作かは不明です。 
 防塁外側のようす。
南端の二重堀のようす。 
 南端の土塁。


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