アウクスブルク( Augsburg )
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: ローマ帝国
 交通  : アウクスブルク中央駅徒歩15分
 地図  : Google マップ

       <沿革>
           アウクスブルクとは「アウグストゥスの城」の意であり、その歴史は古代ローマ時代に遡る。紀元前
          15年、皇帝アウグストゥスは2人の養子に軍営の建設を命じ、紀元後1世紀ごろには周囲に集落が
          発展してアウグスタ・ヴィンデリクムと名付けられた。ヴィンデリクはケルト人の部族名で、史料上は
          トリーアに次ぎ、ドイツ内で2番目に古い都市とされる。121年にはローマの都市権を与えられ、それ
          以前の95年ごろには、ラエティア属州の州都となっていた。
           260年から、ゲルマンのユートゥンゲン族がラエティアに来襲するようになり、271年にはアウクス
          ブルクも包囲された。294年にはラエティアが分割され、アウクスブルクはラエティア・セクンダ属州の
          州都となった。
           その後、8世紀にフランク王国のカール大帝が統治するまでの動静は明らかでない。ローマ時代
          後期には司教座が置かれていたともいわれるが、確証はない。565年には都市の守護聖人アフラ
          についての記述がみられ、カール大帝の治世下では、司教ジンペルトが街の「復興」に尽力したと
          されている。955年には、神聖ローマ皇帝オットー1世が司教ウルリヒ・フォン・アウクスブルクの助力
          を得て、アウクスブルク南方でのレヒフェルトの戦いでハンガリー軍を撃破した。この戦いに先立ち、
          ハンガリー軍は、アウクスブルクを包囲したともいわれる。また、この勝利によってマジャール人の
          侵攻は終息し、オットー1世の権威が大きく上昇した。
           1156年、アウクスブルクは皇帝フリードリヒ1世から都市権を与えられた。2年後の1158年には、
          フリードリヒ1世によってフライジング司教とバイエルン公ハインリヒ12世(獅子公)の争いを仲裁する
          アウクスブルク協定が発布された。そのなかに初めてミュンヘンの都市名が記載され、この年が
          ミュンヘンの建市年とされている。
           1276年には帝国自由都市に昇格し、1316年に、後に皇帝となるバイエルン公ルートヴィヒ4世が
          その地位を保証したことで、アウクスブルクの自治権は最大限に拡充された。他方で都市と司教の
          間には軋轢を生じるようになり、15世紀にはアウクスブルク司教が北西のディリンゲン(・アン・デア・
          ドナウ)に居を移す事態に発展している。
           1468年にギュンター・ツァイナーが最初の印刷物を発行すると、アウクスブルクは印刷業の中心
          としても繁栄した。また、15世紀末にはフッガー家やヴェルザー家が勃興し、商都アウクスブルクの
          地位確立に大きく寄与した。フッガー家は都市貴族に叙されて今日まで続いているが、ヴェルザー
          家は16世紀中葉に王侯貴族への貸付金が焦げ付いて衰退し、17世紀に入って破産している。
           1518年10月、アウクスブルクのフッガー邸でマルティン・ルターへの審問が開かれた。95か条の
          論題の撤回を拒否したルターは逮捕されるのを恐れ、アウクスブルク市長の息子でカルメル会の
          修道士であったクリストフ・ランゲンマンテルの手引きで、城壁の小口から逃亡した。商都の気質も
          あってか、アウクスブルクは終始ルター派を支持していたが、プロテスタント運動に加わって対立を
          先鋭化させるようなこともしなかった。1530年には、ルター派教会は旧教組織との対決を意図する
          ものではないとして意義を擁護する「アウクスブルク信仰告白」を起草している。
           三十年戦争中期の1628年から、アウクスブルクにはカトリック連盟側のバイエルン軍が進駐した。
          1632年にはスウェーデン王グスタフ2世アドルフの勧告に応じ、バイエルン軍の安全な撤退を条件
          に降伏・開城した。1634年のネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍が大敗すると、アウクスブルク
          はカトリック連盟軍に包囲され、兵糧攻めに遭った。翌1635年3月まで持ち堪えたものの、5千人と
          いわれる餓死者を出して降伏した。
           戦争末期の1646年9月、今度はスウェーデンとフランスの連合軍が襲来し、激しい砲撃を受けた。
          しかしバイエルン軍が救援に来ると、連合軍は包囲を解いて撤退した。1648年5月、アウクスブルク
          西方でツーマルスハウゼンの戦いが行われると、敗れた神聖ローマ帝国およびバイエルンの将兵
          がアウクスブルクへ逃げ込んでいる。
           スペイン継承戦争中の1703年、バイエルン軍がアウクスブルクを占領したが、翌年には撤退した。
          ナポレオン戦争中の1805年末、フランスとオーストリアの間でプレスブルクの和約が結ばれると、
          アウクスブルクは帝国自由都市の地位を失い、フランスの同盟者であったバイエルンに併合された。


       <手記>
           上記の通りドイツで2番目に古い都市といわれるアウクスブルクは、ミュンヘンから快速列車でも
          40分強で行けます。南北に長い緩やかな丘の上に建設された都市で、北端から南端までは約2km
          あります。第二次世界大戦での空襲で大きく破壊されたようですが、旧市街の西辺を除く三方に
          城壁や塔、門などが残存ないし復元されているようです。
           また、丘の東麓には旧市街の拡張エリアがあり、その北東および南東隅には円形のバッテリー跡
          も見られます。この拡張エリアには、フッガー家が福祉事業として建設した低所得者のための集合
          住宅「フッゲライ」があり、私にとってはアウクスブルクの都城遺構と同じか、それ以上の訪問目的
          でした。フッガー邸と同じ淡いクリーム色が特徴で、今も年間家賃88セントというとんでもない破格
          で運営されていますが入居するにはカトリックのアウクスブルク市民であることや、日に3度の礼拝
          を行うことなど条件がいろいろあるようです。そのくせ観光客は入場料8ユーロを徴収され、小生も
          フッゲライの運営資金として天の国に富を積んできました笑
           日本で福祉住宅というとあまり住環境の良いイメージではありませんが、フッゲライは富豪の慈善
          事業に端を発しているためか、インフラにはかなり力が入れられているようです。なんでも白物家電
          や水洗トイレなどは市内でもかなり早い段階で導入されていたのだとか。しかも創設が武田信玄の
          生まれた1521年というから驚きですね。
           また旧市街南端の赤の門脇には、世界遺産に登録されている給水塔があります。アウクスブルク
          の水管理システムというのが登録名らしいのですが、城門やフッゲライ、大聖堂などと比べると地味
          で観光地らしさはなく、なによりそこへの行き方が分かりにくく案内もあまりありません。このあたり
          も、世界遺産というと観光スポットとして前面に押し出そうとする日本と大きなギャップを感じました。
           最後に、市庁舎地下のラーツケラーで食事をしたのですが、そのときに「シュヴァーベン料理詰め
          合わせ」を注文して初めて、アウクスブルクがバイエルンではなくシュヴァーベン地方に属することを
          知りました。ダンプリングの一種マウルタッシェや、タマネギを添えた卵麺シュペッツレなどが美味し
          かったです。

  
 拡張エリア北辺の水濠と城壁。
拡張エリア北東隅のバッテリー跡を望む。 
 同じく拡張エリア北東隅。
バッテリー付け根付近のようす。 
 拡張エリア東辺の水濠。
バッテリーの建物を見上げる。 
レストランらしいですが、遺構かは不明です。 
 バッテリーから続く城壁らしき建物。
拡張エリア東辺の「五指塔」。 
 同じくヤコーバー門。
拡張エリア南東隅のヤコーバー城壁。 
 拡張エリア南西隅のフォーゲル門(小鳥門)。
旧市街南東辺の城壁。 
 旧市街南東辺下の堀川。
旧市街南端の赤の門へ通じる石橋。 
 赤の門とその脇のバッテリー跡。
 赤の門は工事中で通れませんでした。
世界遺産の給水塔。 
 給水塔と中庭。
 見付けにくいところにあります。
フッゲライ。 
 フッガー邸。
アウクスブルク大聖堂。 
 モーツァルトの生家。


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