| ミュンヘン( München ) 付 アルトハイム城(Burgstall Altheim) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 都城 | |
| 築城者: ハインリヒ獅子公 | |
| 交通 : ミュンヘン市街から地下鉄に乗り、 「マリエン広場駅」等下車 |
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| 地図 : Google マップ(アルトハイム城) | |
<沿革> ザクセン公およびバイエルン公であったハインリヒ(傲岸公)の子ハインリヒ(獅子公)は、ドイツ王 コンラート3世からザクセン公のみの相続を認められていたが(ハインリヒ3世)、コンラート3世の甥の 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世から、1156年にバイエルン公の地位も認められた(ハインリヒ10世)。 ミュンヘンは獅子公によって新しく建造された都市とされる。史料上は、1158年6月14日に結ばれた アウクスブルク協定にある「bei den Mönchen(メンヒェンにて)」の一節が初出とされる。ミュンヘン の地名は今日の修道士(Mönch)が語源と考えられているが、具体的な由来は定かでない。 当初の範囲は聖ペーター教会付近が南東隅、フラウエン教会付近が北西隅で、現在もフェルバー グラーベンやアウグスティーナー通りなどの道割りに当時の外郭線が見て取れる。4kmほど北東の オーバーフェーリングにはそれまで塩街道(Salzstraße)が通り、イーザル川を渡る橋や市場、関所、 そしてオーバーフェーリング城があったが、獅子公はこれらを廃して街道を付け替え、ミュンヘンに 諸機能を移したとされる。オーバーフェーリングの領主であるフライジング司教は橋の再建を何度も 試みたが、その度にバイエルン公の妨害にあって実現しなかった。 また、聖ペーター教会の建つペータースベルグル(Petersbergl)地区には獅子公の初期の城館が あったとする説もあるが、史料や考古学上の裏付けはない。ミュンヘンの最初の市壁は、ハインリヒ 獅子公存命中の1175年に築かれた。 1180年、ハインリヒ獅子公はフリードリヒ1世のイタリア遠征を支援しなかったために不興を買って 失脚し、帝国アハト刑に処されて所領を失った。バイエルン公はヴィッテルスバッハ家のオットー1世 に渡ったが、ミュンヘンはフライジング司教の領有となった。しかし、ミュンヘンでの貨幣鋳造権は バイエルン公の手に残ったため、司教との間で対立が生じた。オットー1世の子ルートヴィヒ1世は、 1200年に初めてミュンヘンを訪れてフライジング司教と会見し、1209年にハインリヒ獅子公の息子 である神聖ローマ皇帝オットー4世の仲裁を受けている。その後、ルートヴィヒ1世は司教に対する 優位性の確立に努め、子のオットー2世の代の1240年までに、ミュンヘンはバイエルン公の領有に 帰した。 1253年にオットー1世が没すると、子のルートヴィヒとハインリヒはバイエルン公領を分割し、兄の 前者がルートヴィヒ2世として上バイエルン公に就いた。ルートヴィヒ2世はミュンヘンを居所と定め、 これによりミュンヘンは公都として発展していくことになる。公宮としてアルターホーフ(旧宮)が造営 されたが、それ以前に市壁の南西外である、今日のアルトハイマーエッケの南側にアルトハイム城 が営まれていたと考えられている。この城館は八角形の城塔と中庭を有していたともいわれるが、 やはり史料や考古学上の裏付けはない。 1314年、ルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ4世は神聖ローマ皇帝に選出され、1340年に娘と結婚 させた下バイエルン公ヨハン1世が11歳で夭折すると、遺領を継いで上下バイエルン公を統合した。 この間の1327年、ミュンヘンで大火があり、その復興と合わせて、拡大された市域を囲む2番目の 城壁が構築された。ただ、新しい城壁の建設計画は1285年から始まっていたとされる。新市壁は 1337年に至って完成した。 1347年にルートヴィヒ4世が死去すると、バイエルン公国は子によって複数に分割された。これは ヴィッテルスバッハ家の弱体化を招き、ハプスブルク家との軋轢が強まるなか、1360年代に新要塞 (ノイヴェステ)が建造されている。バイエルン戦争末期の1422年には、上バイエルン=ミュンヘン公 エルンストが対立する上バイエルン=インゴルシュタット公ルートヴィヒ7世に攻められ、ミュンヘンを 包囲されたが、撃退に成功した。 1504年にやはり同族内の争いであるランツフート継承戦争が勃発すると、ミュンヘンでも攻防戦 があったとされるが、1505年に皇帝マクシミリアン1世によるケルン調停を受けて上バイエルン= ミュンヘン公アルブレヒト4世(狡猾公)のもとにバイエルン公国は再統一され、ミュンヘンが唯一の 首都と定められた。1560年代には、新要塞が今日に見るレジデンツへと改修されている。 1619年に三十年戦争が勃発すると、バイエルンはカトリック同盟の主翼を担い、公臣ティリー伯 ヨハン・セルクラエスが総司令官を務めて各地を転戦した。この功により、バイエルン公は1623年に 選帝侯に昇格している。他方でミュンヘン自体の近世要塞化は遅れていたといわれ、戦争中盤の 1632年にスウェーデン王グスタフ2世アドルフの軍勢が迫ると、ミュンヘン市長リグザルツは街の鍵 を携え、跪いて出迎えたと伝わる。ミュンヘンは無血開城したものの、人質と巨額の保証金を供出 してようやく、スウェーデン軍による略奪を免れた。 18世紀に、ミュンヘン郊外にニンフェンブルク城が造営されると、ヴィッテルスバッハ家の夏宮と して使われるようになった。ノイシュヴァンシュタイン城の築城主であるバイエルン国王ルートヴィヒ 2世も、1845年にニンフェンブルク城で出生している。 <手記> ミュンヘンといえばバイエルン州の州都にしてドイツ第3の人口をもつ大都市。それでいて旧市街 は比較的コンパクトで、周辺には緑も多く、自分は中心部から地下鉄で10分程度の地区の民泊を 利用しましたが、高い物価を除けばとても住みよく感じました。 都城の遺構は多くありませんが、二重の城壁跡は今も道路として輪郭をたどることができ、また 外側の城壁のゼンドリンガー門とイーザル門が残っています。聖ペーター教会が城砦跡かどうかは 現状ではまったく分かりませんが、南東のヴィクトリアーレンマルクトから望むと、河岸の微高地を 利用していることが見て取れるでしょう。またアルトハイム城は、美術館となっているホッター通り 沿いの防空壕施設付近にあったと推測されていますが、現地にはとくにそれを示すものは見当たり ませんでした。 ドイツを代表する観光都市であり、そんな古城跡よりも華やかなレジデンツやニンフェンブルク城 が見どころなわけですが、自分は宮殿には関心が向かないのでどちらも入っていません。都城の 故地を巡ったあとは、市庁舎やフラウエン教会を訪れ、ピナコテークで絵画を鑑賞し、ホーフブロイ ハウスで1リットルビールを堪能しました。 |
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| ヴィクトリアーレンマルクトから聖ペーター教会を望む。 河岸の微高地にあることが分かります。 |
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| 聖ペーター教会をマリエン広場から望む。 | |
| 聖ペーター教会の建物。 | |
| フラウエン教会を見上げる。 | |
| アルトハイム城跡とされる付近。 | |
| 同上。 | |
| イーザル門。 | |
| ゼンドリンガー門。 | |
| ミュンヘン郊外のニンフェンブルク城。 今もヴィッテルスバッハ家の所有です。 |
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