岩倉城(いわくら) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原長房か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR徳島線穴吹駅よりバス 「道の駅うだつ」バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 承久三年(1221)の承久の乱での戦功により、信濃の小笠原長清が阿波守護に 任じられた。長清の嫡孫長忠は本領信濃に定着し、阿波守護は弟の長房が継いだ。 文永四年(1267)、長房は三好郡領平盛隆を討ち、幕府からその領地を与えられた。 これ以降、長房は岩倉城を居城としたとされるが、このとき築かれたのかすでに存在 していたのかは不明である。 三好郡を本貫とする三好氏は、長房の後裔とされているが、詳しい系譜については 定かでない。戦国時代後期には、三好長慶の叔父康長の子康俊が城主となった。 康長も岩倉城主だった可能性もあるが、康俊以前の岩倉城の動向は詳らかでない。 天正七年(1579)、土佐の長宗我部元親が阿波国へ本格的に侵攻すると、康俊と 脇城の武田信顕は元親に降った。康俊と信顕は三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐 勢とともにこれを壊滅させ、三好方の多くの武将を脇城下で殺害した(岩倉合戦/ 脇城外の戦い)。 天正九年(1581)、康俊は織田信長に降っていた父康長の説得を受けて織田氏 傘下の三好氏に再び寝返り、信顕も同調した。しかし、翌十年(1582)に本能寺の 変が起こると、三好氏は後ろ盾を失い、長宗我部氏の攻勢を招いた。岩倉・脇両城 はまもなく攻め落とされ、康俊は逃亡したとも討ち死にしたともいわれる。 天正十三年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が四国平定に乗り出すと、脇城を長宗我部 親吉が、岩倉城を元親の従弟にあたる比江山親興(長宗我部掃部助)が守備した。 しかし、羽柴秀次の大軍に攻められて開城した。 四国平定後の仕置で蜂須賀家政に阿波一国が与えられると、家政は脇城を阿波 九城として取り立てる一方、岩倉城は廃城とした。 <手記> 岩倉城は吉野川河岸の一端を利用した城で、東麓には新町谷川が流れ、その東 には脇城があります。南麓からは登れず、主城域のすぐ裏手に徳島自動車道が 走っているので、少々行き方が分かりづらいかもしれません。城跡の北の真楽寺を 目指すのがミソで、車でも徒歩でもまずは新町谷川東岸の道を北上します。高速道 の下を抜けた先で左に折れ、台地を登ると、真楽寺の手前で左折するよう案内板が 出ています。その先で高速下の隧道を抜けると、駐車スペースがあります。ここから もう少し台地のさきっぺへと歩くと、主城域に到達します。 一番の見どころは主郭北の堀切でしょう。また主郭南面の切岸もなかなか見応え があります。主郭の南下の腰曲輪に説明板が設置されていて、その先端はいくらか 眺望も開けています。主郭自体はそれほど広くもなく、造作にそれほどの工夫もみら れません。主郭の北の曲輪は墓地となっています。 主城域のひとつ東の台地の鼻(駐車スペースの南側一帯)は、うって変わってやや 面積があり、学研の歴史群像シリーズではここに城主居館があったものと推測して います。 全体的に見ると、吉野川の河岸段丘が続くこの地域では、岩倉城はさほど要害の 城とは思えません。それでもこの場所にわざわざ選地されたのは、もともと岩倉には 六坊があったとされ(現地説明板より)、道場としてすでにいくらか開けていた土地 だったからと推測されます。 規模はそこまで大きくないものの、ここがかの三好氏のはじまりの場所だと思うと、 なかなか感慨深いものがあります。 |
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岩倉城跡を南東から望む。 | |
城址説明板。 | |
主郭切岸。 | |
主郭内のようす。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭1段下の腰曲輪。 | |
岩倉城址からの眺望。 | |
主郭の北の曲輪にある墓石群。 | |
主郭の1つ東側の台地の鼻。 |