脇城(わき) | |
別称 : 虎伏城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 脇権守か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、石積み、井戸、虎口 | |
交通 : JR徳島線穴吹駅よりバス 「道の駅うだつ」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 戦国時代に脇権守が館を築いたのがはじまりとされるが、いかなる人物かは不明 である。天文二年(1533)に三好長慶が城として取り立て、三河守兼則が守備した。 この前年に長慶の父元長は堺の顕本寺で一向一揆に攻め殺され、長慶は領国阿波 に雌伏していた。『脇町誌』によれば、兼則は三好一族で三好姓とされる。 弘治二年(1556)、長慶は武田信玄の異母弟で武田信虎とともに追放され流浪の 身となっていたとされる武田信顕を招き、脇城主とした。 天正七年(1579)、信顕は隣の岩倉城主三好康俊とともに長宗我部元親に降伏し、 三好方の軍勢を岩倉城下に誘き出して壊滅させた。矢野国村や川島惟忠といった 三好家の武将を脇城下で殺害したため、この戦いは岩倉合戦ないし脇城外の戦いと 呼ばれている。 天正九年(1581)ごろ、元親と織田信長が手切れとなり、信長による四国攻略が はじまると、康俊はすでに織田氏に降っていた父康長の説得により長宗我部氏から 離反した。信顕も同調したが、翌十年(1582)に本能寺の変が起こるとすかさず元親 は攻勢に転じ、八月十七日には長宗我部勢3千の兵が脇城へ攻め寄せた。信顕は 5百の兵で迎え撃ち、5日間もちこたえたが、ついに同月二十二日に落城した。信顕 の子信定は16歳という若さで自害して果て、信顕は逃亡したものの、長宗我部軍の 追撃に遭って討ち死にした。 脇城主には、元親の叔父親吉が任じられた。天正十三年(1585)の羽柴(豊臣) 秀吉の四国攻めでは、脇・岩倉の両城は羽柴秀次に攻められ、降伏・開城した。 撤退の途中、親吉は貞光の土豪南氏に殺害された。 同年に四国平定が成ると、蜂須賀家政が阿波一国に封じられた。家政は、筆頭 家老の稲田植元に1万石を与え、脇城代に据えた。今に残る脇城の遺構と城下町 の基礎は、稲田家の統治のもとで整備された。脇城は蜂須賀領の有力支城「阿波 九城」のひとつとして重視されたが、寛永十五年(1638)に一国一城令に基づいて 破却された。 <手記> 脇城は、鋭角二等辺三角形をした吉野川の河岸段丘を利用して築かれています。 秋葉神社背後の細い九十九折れ道を登ると、二の丸の堀切を利用した堀底道まで 上がれます。それほど大きくない車であれば、ここまで来て停めることもできます。 二の丸の堀切と二の丸は城跡と実感できるほどの遺構ではありませんが、本丸 の空堀を目にすれば、誰しもテンションが一気に上がることでしょう。竹林でだいぶ 埋まった感じの箱堀なので写真写りは悪いですが、かなり大きな遺構です。また、 この堀の土橋を渡った先の、本丸虎口跡と思われる箇所には石垣の跡も認められ ます。 本丸内もまたやや藪なのですが、先端にはこちらも虎口のような枡形状の窪地が あり、先端側からも出入りができたものと思われます。さらに、本丸堀に沿って北東 隅方向へ歩くと、左手に石組みの井戸があります。その先にはもう1つの見どころ と思われる、北東隅の土塁と、その西側に突如現れる横堀があります。ここに横堀 が設けられる積極的な理由はちょっと推測しにくいのですが、この堀は台地端まで 続いてそこから下へ落ち込んでいます。 全体としてみると、脇城は近世まで存続した城としては規模も大きいとはいえず、 縄張りも単純です。この点は他の阿波九城についても同様で、中世の城をちょっと 拡張した程度の造作で済ませている城が多いように思います。 ちなみに、脇町というと今では「うだつの町並み」で有名です。もともとは城下町 ですが、廃城後は完全に商都として発展したようで、武家町とは趣が異なる白壁 にうだつの町屋が立ち並ぶさまは、城跡と武家屋敷に慣れた私の眼には新鮮に 映りました。 |
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脇城跡を南西から望む。 | |
二の丸堀切跡。 | |
二の丸現況。 | |
本丸空堀。 | |
本丸虎口(?)の石塁跡。 | |
本丸の土塁。 | |
本丸先端の虎口状地形。 | |
本丸の井戸跡。 | |
本丸北東隅の土塁(罠の背後)。 | |
本丸北辺の横堀。 | |
同上。 | |
横堀先端部。 | |
おまけ:脇町のうだつの町並み。 |