養宜館(やぎ)
 別称  : 八木館
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 高速バス西淡志知バス停にて乗り換え
       市コミュニティバス「中八木集会所先」下車


       <沿革>
           興国元/暦応三年(1340)、足利尊氏は細川頼春の弟師氏に淡路国の平定を命じた。
          師氏は立河瀬の戦いで南朝方の宇原氏を破り、淡路守護となって養宜館を居所とした。
          養宜館はそれ以前から淡路の守護所であったと考えられているが、いつごろ誰によって
          築かれたのかは不明である。以後、師氏の子孫が淡路守護を世襲した。
           師氏から数えて7代目の尚春は、永正四年(1507)の永正の錯乱によって細川京兆家
          当主となった細川高国と対立し、阿波の三好之長と共に挙兵した。しかし、同八年(1511)
          の芦屋河原の戦いで敗北し、高国に降伏した。同十四年(1517)、今度は之長が淡路に
          攻め入り、尚春は敗れて堺へ逃れた。経緯は不明だが、尚春は同十六年(1519)五月に
          阿波国内で之長に殺され、細川淡路守護家は滅んだ。養宜館はこの2年間のいずれかの
          時期に廃されたものとみられている。


       <手記>
           養宜館は、養宜川と成相川が形成する、三原平野を望む扇状地のような緩やかな傾斜
          地形の一画に位置しています。南西に国分寺跡や神代國衙という地名があることから、
          三原平野に淡路国府があり、前出の通り養宜館も平安時代からの何らかの施設の転用
          と推定されています。
           現在は、「つ」の字状に東半分ほどの堀と土塁が残っています。地割りのようすから、
          周辺にはほかにも屋形様の建物がいくつか存在していたものと推定されています。
           室町時代の淡路守護累代の居館だけあって、当時はそれなりに栄えていたものと思わ
          れますが、いかんせん居館の域を出るものではなく、防御の用はほとんど成さなかったと
          考えられます。
 北辺の土塁と堀跡。
館内から北辺の土塁を望む。 
 同じく東辺の土塁。
虎口跡か。 


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