馬路城(うまじ)
 別称  : 西岡城
 分類  : 山城
 築城者: 大西頼包か
 遺構  : なし
 交通  : JR土讃線・徳島線阿波池田駅からバスに
      乗り、「天神」下車徒歩15分


       <沿革>
           白地城主大西覚養は、土佐を統一した長宗我部元親と和議を結んでいたが、天正五年(1577)に
          再び三好氏方へ離反した。このとき、人質として赴いていた覚養の弟の大西上野介頼包は、元親に
          処刑されるどころか厚遇を受け、阿波侵攻の先駆けとして活躍した。
           同年に白地城が陥落し、元親の四国攻略の拠点として取り立てられると、頼包は馬路城を居城と
          した。ただし、頼包が新規に築城したのか、元々あった城砦を修築したのかは不明である。
           天正十三年(1585)の四国攻めで元親が羽柴秀吉に降伏し、土佐一国のみを安堵されると、頼包
          も阿波の所領を失い、馬路城も廃城となったと推測される。


       <手記>
           馬路城は馬路川に臨む谷筋の1ピークにあったとされていますが、今日では徳島自動車道が貫通
          しており、遺構は消滅しています。高速道を渡る跨道橋は馬路城橋と名付けられ、南側のたもとには
          「西岡城跡」の石碑が建っています。
           国土地理院地図の古い航空写真を見ると、今は雑木林となっている周辺の急峻な山肌に、かつて
          はびっしりと耕作地が広がっていたようです。城は南側を除く三方に堀を巡らしていたとされ、おそらく
          単郭だったと推測されます。このあたりは、厚遇されたとはいえ離反した在地勢力の人質という身分
          を鑑みて、頼包としては悪目立ちするような城館を敢えて築くインセンティブははたらかなかったもの
          と拝察されます。

           
 馬路城跡を見上げる。
馬路城橋。 
 馬路城跡現況。
馬路城橋南詰の「西岡城跡」碑。 
 城山の南側斜面のようす。


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