阿坂城(あざか)
 別称  : 椎ノ木城、白米城
 分類  : 山城
 築城者: 北畠親房か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR紀勢本線、近鉄山田線松阪駅よりバス
       「岩倉口」バス停下車徒歩40分


       <沿革>
           文和元/正平七年(1352)の『鷲見加々丸軍忠状』に、土岐頼康ら北朝勢が阿坂城を攻めた
          とする記述があるのが、史料上の初出とされる。南朝方の城であることから、伊勢を拠点として
          活動した北畠親房・顕能父子による築城と考えられているが、確証はない。
           応永二十二年(1415)、親房の曾孫満雅が阿坂城で挙兵した。これは、明徳三/元中九(13
          92)の明徳の和約において、南北朝両系統から交互に天皇を輩出するとした合意が、その後も
          遵守されなかったことに不満を抱いたためといわれる。将軍足利義持は、美濃守護土岐持益ら
          を討伐軍として差し向けた。『桜雲記』には、このとき水の手を断たれた籠城方が、馬を白米で
          洗って城内にはまだ水が豊富に残っているように見せかけ、寄せ手を欺いて包囲を解かせたと
          する「白米城伝説」が記されている。ただし、同書は江戸時代の軍記物であり、同様の伝説は
          各地の城にみられるため、真偽のほどは疑わしい。『満済准后日記』によれば、城は同年中に
          落城したとされる。
           応永三十五年(1428)、満雅は再び幕府に反旗を翻したが、岩田川の戦いで追討軍に敗れ、
          討ち死にした。これにより、阿坂一帯の一志郡・飯高郡は北畠氏から取り上げられ、伊勢守護
          土岐持頼に与えられた。阿坂城の処遇については不明である。
           応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱に際し、満雅の子教具は同じく東軍に属していた持頼
          の子政康と対立し、これを駆逐した。この時に、阿坂城も再び北畠氏の手に帰したものと推測
          される。
           永禄十二年(1569)の織田信長の伊勢侵攻に際し、阿坂城は木下秀吉に攻められた。とき
          の城主大宮含忍斎は激しく抵抗し、寄せ手を攻めあぐねさせた。含忍斎の子大之丞は、秀吉
          に矢傷を負わせ、これが秀吉の生涯唯一の戦傷とされる。しかし、秀吉の謀略によって城内
          に内応者が出たことにより開城を余儀なくされ、阿坂城はそのまま廃城となった。


       <手記>
           阿坂城は、標高312mの桝形山山頂に築かれています。山麓の浄眼寺から登山道が整備
          されており、周辺の人々の格好のハイキングコースとなっているようです。というのも、南北朝
          時代に築かれた山城らしく標高はそこそこ高いのですが、山頂までの斜面はとても緩やかで、
          子供連れから老夫婦、カップルに至るまで楽しそうに登っていました。その分、鶴翼に開いた
          山容が雄大な印象を与えています。
           その鶴翼の北側の袖から登るわけですが、中途にも堀底道や竪堀、堀切のような地形が
          ちらほら見受けられます。堀底道については後世のものである可能性もありますが、竪堀や
          堀切については城の遺構と思われます。とくに竪堀には、途中で二股に分かれている箇所も
          あり、興味深いといえます。
           阿坂城の特徴として、北郭と南郭の2つの峰に跨った完全な別城一郭となっていることが
          挙げられます。浄眼寺からのルートを登って最初に到着するのは北郭で、別名椎ノ木城とも
          呼ばれています。北郭の主郭は南北に細長く、土塁で囲まれています。主郭の周囲は高い
          切岸で守られ、その下に通路となっている帯曲輪があります。帯曲輪のさらに西側と北側に
          2つの腰曲輪があり、その間には城内最大と思われる深々とした竪堀が穿たれています。
          北郭の南北2ヶ所の虎口はどちらも喰い違いとなっており、北畠氏が最終改修者であること
          が明確な城のなかでは、かなり凝った造りとなっています。
           北郭と南郭の間の尾根には、2ヶ所の堀切が認められます。南郭の方が桝形山の山頂に
          あたりますが、北郭に比べるとかなり単純な構造をしており、虎口の工夫もみられません。
          こちらも、基本的には主郭とその下の帯曲輪の2段から成っており、尾根が伸びる東側には、
          堀切を挟んで腰曲輪が2段ほど付属しています。北郭と異なり、南郭の主郭には土塁もあり
          ません。これが当時からなのか、登山道整備にともなうものなのかは不明です。
           とはいえ、南郭が阿坂城全体の主郭と見做されているようで、こちらに城址碑が建てられ
          ています。また、南郭の周囲は樹木が伐採されており、その眺望は絶佳という他ありません。
          伊勢平野や伊勢湾はもちろんのこと、海の向こうに三河の山々を望むことができます。
           前述の通り、阿坂城は山そのものは雄大であるものの、城自体は規模壮大とはいえず、
          技巧が加えられているとはいえ、南北朝時代の山城の域からは脱却できなかった城と評価
          するのが妥当と思われます。

 阿坂城址全景。
南郭主郭のようす。 
 南郭主郭からの眺望。
南郭東側尾根の堀切と腰曲輪。 
 南郭東側尾根下の腰曲輪を望む。
南郭主郭の切岸と帯曲輪。 
 南郭主郭から北郭を望む。
南北両郭間の堀切その1。 
 その2。
北郭主郭北端側のようす。 
 同じく南端側のようす。
北郭主郭の切岸。 
 同上。
北郭西側の腰曲輪。 
 同じく北側の腰曲輪。
両腰曲輪間の竪堀。 
 登山道途中の堀切状地形。
同じく堀底道状地形。 
 同じく竪堀状地形が二股に分かれているところ。


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