桧原城(ひばら)
 別称  : 小谷山城、政宗城
 分類  : 山城
 築城者: 伊達政宗
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 磐越自動車猪苗代磐梯高原ICから
      車で30分


       <沿革>
           『会津古塁記』には「天文(1532〜55)の始に松本宮内が十八間地取りしたが完成しなかった」
          とある。『日本城郭大系』には政宗城の名称で記載され、伊達家臣・松本宮内の砦となっている。
           一般的には、『会津舊事雑考』や『檜原戦物語』にある通り、天正十三年(1585)に伊達政宗が
          築城したとされ、蘆名氏攻めの拠点として重臣・後藤信康が城番を務めた。同十七年(1589)の
          摺上原の戦いでは、原田宗時率いる別動隊が桧原城から進攻し、後方攪乱を行った。
           同戦いからまもなく大名・蘆名氏が滅ぶと、桧原城は役目を終えて廃城となったとされる。


       <手記>
           桧原城は桧原湖の北端に臨む比高130mほどの山城です。ただ、桧原湖は明治21年の磐梯山
          噴火で形成された堰止湖なので、当時は北の桧原峠を越えた山道が桧原川沿いの谷筋に出る
          喉口部の要衝にあったものと思われます。南麓の道路沿いに説明板や駐車場があり、登城路も
          整備されているので訪城は容易です。
           構造としては主副2郭を主体とし、その周囲は横堀で囲われて、南尾根にも曲輪群が設けられ
          ています。とくに副郭の虎口が喰い違いを重ねた九十九折れになっているなど技巧的で、伊達氏
          の築城術が遺憾なく投入されている印象です。南尾根の南端は、やや藪に埋もれているものの、
          さらに三重堀切となっています。
           城山から少し離れた湖岸には外構の虎口と大手馬出しがあるそうですが、このときは総勢10名
          を超えるオフ会だったこともあり、未訪です。外構の土塁は湖中にも続いていて、かなり大規模な
          根古屋や城下町が形成されていたようです。このことから、個人的には蘆名氏滅亡後も、会津と
          米沢を結ぶルートの重要な中継拠点として、奥州仕置までは城が維持されていたのではないかと
          感じました。

           
 桧原城跡全景。
登城口の説明板。 
 主郭部下の横堀。
北端の主郭切岸。 
 主郭と副郭の間の堀切。
主郭の虎口。 
 主郭のようす。
主郭から副郭を俯瞰。 
 副郭のようす。
 副郭の切岸と帯曲輪。 
 副郭の連続喰い違い虎口。
同上。 
 南端の堀切1条目。
同2条目。 
 同3条目。
副郭東辺の横堀。 
 同上。


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