ビショフシュタイン城 (Burg Bischofstein) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城(Spornburg) | |
築城者: トリーア大司教 | |
交通 : モーゼルケルン駅徒歩40分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 4〜5世紀ごろ、フランク人の侵攻に備えるためトリーア大司教によって城の前身となる砦が 築かれたとする説もあるが、確証はない。一般的にはトリーア大司教アルノルト1世によって、 1170年前後にモーゼル川を航行する船舶からの徴税目的で築かれたといわれる。 1260年ごろ、トリーアの助祭長ハインリヒ・フォン・ボーランデンが城を譲り受け、彼の手に よってビショフシュタイン城は完成をみたとされる。落成の後、ハインリヒは城をトリーアに返還 した。 1298年、勢力拡大に積極的なオーストリア公アルブレヒト1世が神聖ローマ皇帝に即位する と、諸侯との間で軋轢が生まれ、トリーア大司教とも戦争状態となった。1302年には、トリーア 大司教ディーター・フォン・ナッサウが会戦に備えてビショフシュタイン城に滞在した。その後、 助祭長ハインリヒ・フォン・プファッフェンドルフが城主に任じられた。ハインリヒは、1329年に 城主として以下の3点をトリーア大司教から厳命されている。 @敵を一切侵入させないこと Aモーゼル川の往来の保全Bトリーア大司教の許可なく、家臣や他の城主を城へ迎え入れ ないこと。これらのことから、ビショフシュタイン城がいかに重要視されていたかがうかがえる。 1552年、ブランデンブルク辺境伯のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=クームバッハが ビショフシュタイン城を包囲したが、もち堪えている。その後、17世紀前半の三十年戦争には 巻き込まれることはなかったが、修築もされなかったため、城は徐々に朽ちていった。 プファルツ継承戦争さなかの1689年、ビショフシュタイン城は、周辺の他の諸城と同じくルイ 14世のフランス軍によって爆破された。 1794年にライン左岸がフランス領となると、ビショフシュタイン城はフランス政府の管理下に 置かれ、1803年に競売に付された。ブドウ農家のニコラウス・アルツが城を買い取り、その後 住居として使用された。 1930年にはダルムシュタットの銀行頭取エーリッヒ・デークーが購入し、別荘として修築した。 今日目にしているフォルムの原型はこのときのものである。1936年にデークーは破産し、城は エニー・ノイアーブルクが競り落とした。第二次世界大戦中は、エニーの差配のもと城は兵士の 保養や野戦病院、難民の収容所などとして使用された。1953年にエニーが亡くなると、遺族は 城をフィヒテ・ギムナジウムに売却し、林間学校寮となった。 <手記> ビショフシュタイン城はコブレンツの南西15kmほどのところ、モーゼル川の喉口部の最奥に 位置しています。川を遡上する敵がこの城を抜くと、トリーア攻略の拠点を与えてしまうことに なるため、トリーア大司教にとって戦略的にかなり重要であったと思われます。 また城の立地も、モーゼル川の渓谷が狭まった峰の先にあり、十分に要害性を備えていた と考えられます。対岸にはブルゲンの町、西3kmほどのところにはエルツ城があります。 今では学校法人の宿泊施設となっていて、どうも個人では泊まれないようです。ただ、8人 以上の団体であれば、研修用などに宿泊できるようです。 |