備中高松城(びっちゅうたかまつ) | |
別称 : 高松城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 石川氏 | |
遺構 : 曲輪、堀跡 | |
交通 : JR吉備線備中高松駅徒歩7分 | |
<沿革> 永禄年間(1558〜70)の末ごろまでには、幸山城主石川久式の支城として築かれていたと される。備中石川氏は清和源氏の後裔を称しているが、その系譜は明らかでない。一説には 石川氏の一族石川左衛門佐久孝が城主で、同八年(1565)に娘婿の清水宗治が城を奪い、 毛利氏に通じたといわれる。しかし、当時の石川氏は三村氏の臣下であり、三村氏は毛利氏 に従属していたため、宗治が毛利氏に通じるというのは不自然であり、また毛利氏が陪臣の 陪臣にあたる宗治の謀叛に介入するいわれもない。 実際には、天正二年(1574)に三村元親が毛利から離反し、翌三年(1575)に元親と元式が 備中松山城で自刃して三村・石川両氏が滅ぶまでの間に、毛利に寝返ったものとみられる。 清水氏は古代・田使首を本姓とする難波氏の後裔で、賀陽郡清水村(現在の総社市井出)を 本貫とするとされる。宗治は毛利氏、とくに山陽路方面担当の小早川隆景に大いに信任され、 引き続き高松城主を務めた。 天正十年(1582)四月、織田信長配下の羽柴秀吉勢が備中へ侵攻し、宗治に降伏・寝返り を呼びかけた。備中・備後2か国を与えるという好条件だったといわれるが、宗治はこれを拒絶 し、書状を毛利輝元のもとへ送付した。 秀吉は周辺諸城を攻め落とし、四月十五日には3万ともいわれる大軍で高松城を包囲した。 しかし、低湿地に囲まれた高松城は力攻めで落ちる気配を見せなかったため、五月八日から 水攻めに切り替えた。総長4kmもの堤防は12日間で完成し、長雨で増水した足守川の流水が 城を取り巻いて湖中の浮島と変えた。水は城内にも溢れ、城兵は舟で移動しなければならな かったといわれる。 ちょうど堤防が完成したころ、毛利輝元・小早川隆景および山陰方面司令官吉川元春らの 援軍が到着した。しかし、直接的な救援は不可能とみた毛利氏は、対峙を続けつつ秀吉との 和平交渉に取り掛かった。しかし、秀吉の条件に宗治の切腹が含まれていたため、毛利氏は これを拒絶したといわれる。また、宗治には救出不可能のため秀吉に降伏するよう伝えたが、 宗治もこれを拒否した。 六月三日夜、秀吉は本能寺の変を報せる明智光秀から毛利への密使を捕えた。緘口令を 布くとともに、和議を急いだ秀吉は毛利方の担当官である安国寺恵瓊に対し、宗治の切腹は 譲らなかったものの、5か国から3か国割譲へと譲歩を示し、毛利氏もこれを受け入れた。 四日午前、秀吉が酒肴を送ると高松城では最後の宴が行われ、宗治と兄の宗知入道月清、 弟の難波宗忠、小早川家臣末近信賀の4人が小舟で秀吉本陣へ漕ぎ寄せ、まず宗治が舞を 披露した後に、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」の辞世を遺して切腹 した。3人もこれに続き、4将を介錯した国府市正も自害した。秀吉は宗治らの死に様を賞賛し、 これが後世における武士の切腹の作法となったともいわれる。 戦後、高松城には宇喜多家臣花房正成が入れられた。正成は慶長四年(1599)の宇喜多 騒動で下野し、翌五年(1600)の関ヶ原の戦い後に花房職秀(職之)が8000石で高松城主と なった。職秀は正成の又従兄弟にあたり、宇喜多家を逐われた後に徳川家康に仕えていた。 花房家は交代寄合として続いたが、高松城は慶長二十年(1615)の一国一城令までに廃城と なったとみられる。 <手記> 戦国史上最も有名な攻城戦の1つであろう備中高松城水攻め。その舞台となった高松城跡 は、低湿地を天然の濠とした平城ということもあってか、意外に遺構は乏しい状況です。輪郭 を留めているのは本丸西半くらいのようで、その外側を取り巻く蓮池は二の丸・三の丸跡まで 続いているものの、形状は当時とは異なっています。かつては本丸から三の丸まで直列した 東側を、家中屋敷と呼ばれる外郭が細く取り巻いていました。今では大部分が宅地や水田に 変わっています。 二の丸跡には新しく資料館が建てられ、私が訪れたときはちょうどタイミング悪く、オープンの 前月でした。二の丸から濠を渡って本丸に入るあたりは、いくぶん城跡らしさが残っています。 本丸には、宗治の辞世を彫った立派な石碑があります。発掘調査では、花房氏の陣屋とみら れる遺構が見つかったそうです。 訪れてもう1つ意外だったのは、秀吉本陣の石井山がわりとすぐ目の前にあるという点です。 これだけ近くに万の大軍を擁していても攻めあぐねたのですから、敵兵が丸見えだけど接近は しにくいという沼に囲まれた平城の特徴が、鉄砲戦の時代には適していたのかもしれません。 ちなみに、訪城の際は本丸東半の郭内にある清鏡庵の「水攻饅頭」がおすすめです。小さな きんつばのように見えて皮はモチモチ、餡はしっとりでたいへんに美味でした。10分少々待って わざわざ蒸していただいた甲斐がありました。1つだけ合点がいかないのは、消費期限が翌日 ということ。高松城は堤防が完成してなお15日ほど持ち堪えたというのに笑 |
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三の丸跡の説明板。 | |
三の丸跡付近から本丸方面を望む。 | |
二の丸跡の資料館。 完成直前でした。 |
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二の丸から濠越しに本丸を望む。 | |
西側から蓮池越しに本丸を望む。 | |
本丸西辺の説明板。 | |
本丸と二の丸の間の濠跡。 | |
本丸の宗治辞世の石碑。 | |
本丸北西隅のようす。 | |
本丸の道路沿いに建つ城址碑。 | |
三の丸付近から秀吉本陣跡の石井山を望む。 |