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黒山城(くろやま) |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 塩津左衛門か | |
遺構 : 曲輪、土塁、石塁、堀、虎口 | |
交通 : 水島臨海鉄道浦田駅徒歩15分 | |
<沿革> 塩津左衛門の居城とされるが、詳細は不明である。 <手記> 黒山城は児島半島を形成する丘陵群の北西端に位置しています。南麓の谷筋に 墓地があり、その奥から林に突入すると、尾根筋を上がる踏み分け道が見えます。 規模は大きくはないものの、コンパクトかつとてもシステマティックな縄張りが一番の 特徴。主郭と東の出曲輪、そして主郭南下に張り出す出枡形状の虎口曲輪とから 成っています。 虎口曲輪はそれ自体に虎口が設けられており、主郭の前方はさらに直角に折れた 喰い違い虎口となっています。すなわち、虎口曲輪を介して大きくS字状に曲がって 主郭に至ります。また虎口曲輪の東辺下には竪堀が設けられ、上部で主郭の横矢 折れ土塁に当たって直角に曲がっていました。 主郭は東西に長い矩形をしていて、上記の通り部分的に横矢折れとなっています。 出曲輪の土塁はよりジグザグに折れていて、先端部下には竪堀が付いていました。 主郭の北西側にはもう一つ開口部があり、その脇には石塁の痕跡が認められます。 ただ、反対側の土塁上には石仏が建っており、城の遺構かどうかは留保が必要かと 思われます。 このように、黒山城はコンパクトながらトーチカのように機能的な構造をしており、 少なくとも現存する遺構は土豪レベルの造作とは思えません。ここで、前述のとおり 城山は児島半島の北西端にあるわけですが、個人的には天正十一年(1583)以降 の中国国分との関連を考えています。羽柴秀吉と毛利輝元の講和条件として、備中 南部は高梁川を境界として毛利氏と宇喜多氏に分けられ、児島郡が宇喜多秀家に 割譲されました。当時の高梁川は酒津以南で連島を挟んで東西2流に分かれていた とされ、東高梁川が現在の水島臨海鉄道のルートに沿って黒山城の西麓を流れて いたようです。 したがって、国分後の宇喜多氏にとって黒山城は対毛利の最前線に位置しており、 このときに国境の要衝として、改修されたのではないかと推察されます。計算された 構造に比して堀が浅いのは、あるいはそれから数年と経たずに毛利家が豊臣政権に 組み込まれ、宇喜多家との緊張関係が緩和したためとも敷衍して考えられます。 ちなみに、私がこの城を訪れたのは急な旅程変更によるものでした。岡山から車で 倉敷美観地区を訪れる予定だったのですが、岡山の寿司屋で道路が混むから電車 の方が絶対に早いという情報をいただき、ご助言に従うことに。せっかくなので、倉敷 から水島臨海鉄道に乗車してみようと思い立ち、さらに沿線で立ち寄れそうな城跡は ないかと探したところ、黒山城がヒットした次第です。そんな経緯なのでさほど期待は していなかったので、この立派な遺構を目にしたときは飛び上がるほど驚きました笑 |
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水島臨海鉄道の車窓から黒山城跡を望む。 | |
虎口曲輪東辺の竪堀を見上げる。 | |
そこから下方へと続く竪堀。 | |
虎口曲輪の虎口。 | |
同虎口を郭内から。 | |
同虎口脇のシンボリックな露岩。 | |
虎口曲輪のようす。 | |
虎口曲輪東辺の竪堀。 | |
同じ竪堀を上から。 | |
虎口曲輪から主郭への喰い違い虎口の入口。 | |
主郭虎口。 | |
喰い違い虎口を上から。 | |
主郭南辺の土塁。 | |
主郭南東隅の横矢折れ。 | |
横矢折れ下で直角に折れる竪堀。 | |
主郭北東隅の土塁。 | |
主郭東下の空堀。 | |
主郭東側の出曲輪の土塁。 | |
出曲輪先端部。 | |
出ぐる輪先端下の竪堀。 | |
主郭北辺の土塁。 | |
主郭内部のようす。 | |
主郭北西側の開口部。 | |
開口部脇の石塁跡。 | |
主郭西下の空堀。 | |
主郭西下の土壇状地形。 | |
城山からの眺望。 | |
おまけ:浦田駅と水島臨海鉄道。 |