本太城(もとぶと)
 別称  : 元太城、本淵城
 分類  : 平山城
 築城者: 源政繩・政吉か
 遺構  : 曲輪跡
 交通  : JR山陽本線倉敷駅からバスに乗り、
      「宇頭間」下車徒歩10分


       <沿革>
           文明十四年(1482)に、本太城主の源政繩・政吉兄弟が本荘八幡宮を襲い、本殿を残して
          破却したとする記録が、史料上の初出とされる。2人は在地領主とみられるが、詳細は不明
          である。
           永禄十一年(1568)、讃岐国の大身領主で塩飽水軍を有する香西氏が本太城を攻撃した。
          しかし、守備方であった毛利氏麾下の能島村上水軍の反撃に遭い、香西又五郎が村上武吉
          の家臣・島吉利に討ち取られ、香西勢は敗退した。この功により、吉利が本太城主となったと
          される。
           元亀二年(1571)、武吉は備前の浦上氏や四国の三好氏と通じて反毛利の姿勢を見せた。
          これに対して毛利家重臣・小早川隆景が素早く応じ、同年四月に本太城を攻め落とした。この
          とき、香西氏が毛利氏と結んで本太城を攻めたものの、当主の香西元載が戦死したとされる
          (『南海通記』)。ただし、当時の香西氏は三好氏麾下であり、毛利氏と単独で同盟を結ぶとは
          考えにくい。『南海通記』には時系列の誤りが散見されるということから、元載と香西又五郎を
          同一人物として、元載の討ち死にを永禄十一年とする説もある。
           同年秋、浦上氏重臣・宇喜多直家が本太城を奪い、宇喜多家臣・能瀬頼吉に城と与えたと
          される。ただし、児島半島の常山城には当時毛利氏に従属していた三村元親の妹婿である
          上野隆徳がおり、本太城南方の般若院には、天正三年(1575)に上野家臣の本淵城主大滝
          高泰が半鐘を寄進したとする記録があるとされ、この本淵城を本太城と同一とする新たな説が
          呈されている。同年に元親が毛利氏から離反すると、常山城は毛利勢に攻め落とされて隆徳
          も滅んだ。高泰の動静は不明だが、天正十一年(1583)以降に行われた中国国分で、児島郡
          が毛利家から宇喜多家へ割譲されていることから、この間の本太城は毛利氏の所有であった
          とみられる。また、それ以前に頼吉が本太城主であったとすると、同十年(1582)に行われた
          八浜合戦の経緯に説明の困難が点が生じる。
           新説にしたがえば、頼吉が本太城主となるのは中国国分以後と推測されるが、確証はない。
          ちなみに、頼吉は多田頼貞の後裔を称していることから摂津能瀬氏とは同族と思われるが、
          詳しい系譜は不明である。


       <手記>
           本太城は児島半島の西端に突き出た岬の海城です。今では周囲を水島工業地帯の工場や
          埋立地にすっかり取り囲まれていますが、当時は東側の細尾根1本で繋がった、ほとんど島の
          ような城砦であったと推測されます。
           上の地図にある通り、東麓の宇頭間集落から道がついており、その入口には小さな石碑も
          建っています。細尾根部分は両サイドを工場等の敷地に削られているため、さらに切り立って
          おり、風の強い日などは注意が必要でしょう。
           道の行きつく先は主郭南側の腰曲輪と思われるのですが、私の訪れた2月でも一面の笹薮
          となっていて、それ以上無理して進んでも何も分からない感じでした。藪さえなければ、遺構が
          比較的しっかり残っているようなので、返す返すも残念です。

           
 細尾根から本太城跡を望む。
城内側から細尾根を俯瞰。 
 城内のようす。
 腰曲輪跡と思われます。
同上。 
 本太城跡から麓の工場を俯瞰。
本太城跡への道の入り口と石碑。 


BACK