千代ヶ岱陣屋(ちよがたい)
 別称  : 千代ヶ岡陣屋、津軽藩陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 仙台藩
 遺構  : なし
 交通  : 函館市電「千代台」電停下車


       <沿革>
           文化四年(1807)、蝦夷地を治めていた松前藩が陸奥国梁川へ転封となり、同地
          は事実上幕府によって上知された。翌五年(1808)、蝦夷地警備を命じられた藩の
          1つである仙台藩は、同地内にいくつか設けられた出張陣屋の元陣屋として、箱館
          (函館)の千代ヶ岱に陣屋を建設した。
           文政四年(1821)、松前家が旧領復帰すると、陣屋は一旦放棄された。しかし、
          安政元年(1854)に日米和親条約が結ばれ、箱館が開港されると、翌二年(1855)
          に箱館周辺は再び幕府直轄領として召し上げられた。箱館警備を命じられた津軽
          藩は、千代ヶ岱の陣屋跡を取り立てて修築した。その規模は、仙台藩時代のもの
          よりも幾分小さなものであったとされる。
           明治元年(1868)十月、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地に上陸した。箱館府
          知事清水谷公考らはまもなく青森へ逃亡し、旧幕府軍は十月二十六日に五稜郭
          に無血で入城した。千代ヶ岱陣屋も同様に接収されたものとみられる。
           翌明治二年(1869)五月十一日に始まった箱館総攻撃に際しては、箱館奉行並
          中島三郎助や小彰義隊頭取渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)らが千代ヶ岱陣屋の
          守備に就いた。同月十五日に弁天台場が新政府軍に降伏すると、残るは五稜郭
          と千代ヶ岱陣屋の2拠点のみとなった。新政府軍は千代ヶ岱陣屋に降伏勧告の
          使者を送ったが、中島はこれを拒否した。他方、渋沢はその日の内に湯の川方面
          へ脱走・逃亡した。
           翌十六日未明、新政府軍による千代ヶ岱陣屋攻撃が始まり、守城側は奮戦した
          ものの衆寡敵せず、中島は2人の息子とともに討ち死にした。同月十八日に五稜郭
          も降伏し、箱館戦争は終結した。千代ヶ岱陣屋は、箱館戦争における最後の激戦
          地となった。戦後、陣屋跡地には函館刑務所が置かれた。


       <手記>
           千代ヶ岱陣屋跡は、現在千代台公園となっています。五稜郭の南東に位置し、
          五稜郭と同じく亀田川東岸の沖積地を利用して築かれています。
           遺構はありません。隣接する中島小学校に説明板が設置されているそうですが、
          訪れたときには情報を掴んでいなかったので、公園を散策するにとどまりました。

           

千代ヶ岱陣屋跡(千代台公園)。


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