五稜郭(ごりょうかく)
 別称  : 亀田役所土塁、亀田砦、亀田塁
 分類  : 平城
 築城者: 江戸幕府
 遺構  : 石垣、堀、土塁
 交通  : 函館市電「五稜郭公園前」電停徒歩10分


       <沿革>
           蝦夷地は江戸幕府開府以来松前藩の治める無石の地であったが、安政元年(1854)
          に日米和親条約が結ばれ箱館(函館)が開港されると、幕府は翌二年(1855)に箱館
          を含む蝦夷地の大半を松前藩から上知した。同三年(1856)、箱館奉行となった村垣
          範正らは、箱館警備のため役所や砲台の新築を提言した。これを受けて、幕府は箱館
          の内陸の亀田村に新たな政庁の建設を計画した。設計には軍学者の武田斐三郎が
          当たり、斐三郎はこれを洋式の稜堡式要塞とした。
           城は元治元年(1864)に完成し、奉行所の機能も移転した。五稜郭は、幕府の資料
          にみられる正式名称としては「亀田役所土塁」と呼ばれる。「土塁」とされるのは、当初
          斐三郎が手本としたとされるフランスの海軍筋から「石塁は不要」とのアドバイスを受け
          たものの、寒さのために土塁では凍って崩れてしまう危険性が発覚したことから、急遽
          石垣造りへと変更されたことによるとされる。石材は、はじめ函館山から切り出されて
          いたが、途中で予算が足りなくなり、亀田川などの川原石へと変更された。今日でも、
          大手である南側の石垣が切り込みハギであるのに対して、搦手である北側の石垣は
          打ち込みハギとなっている。また、同じく予算窮乏の問題から、計画時では5つの稜堡
          の間に同じく5つ設けられるはずであった半月堡が、大手の1基のみとされた。
           慶応四年(1868)に明治維新を迎えると、蝦夷地には新政府によって箱館府が設置
          され、清水谷公考が府知事として派遣された。同年十月二十日、榎本武揚ら旧幕府軍
          が森に上陸すると、公考は箱館府の手勢や松前・津軽両藩兵を迎撃に向かわせた。
          しかし、新政府軍はあえなく敗退し、二十五日に公考は青森へ逃亡した。翌二十六日、
          旧幕府軍は無血で五稜郭に入城し、同年中には蝦夷地を平定した。同年十二月十五
          日、榎本らは蝦夷共和国の樹立を宣言し、五稜郭はその首府となった。
           翌明治二年(1869)四月、新政府軍による蝦夷上陸作戦がはじまり、五月十一日に
          箱館総攻撃が開始された。翌十二日には、函館湾を制していた新政府の軍艦「甲鉄」
          による五稜郭への直接砲撃が開始された。しかし、平地の内陸にあって高さも抑えられ
          た洋式要塞に対して、海上からでは照準を合わせることができず、砲弾はほとんど城内
          には着弾しなかった。ところが、政庁舎の上にわずかに突き出た楼閣の存在に甲鉄が
          気付いてこれを目標としたことから、昼過ぎごろから砲弾が命中するようになった。榎本
          らもそれを察知して慌てて楼閣を撤去したが、一度照準を測られてしまった以上、後の
          祭りであった。
           それでも榎本らは幾度となく降伏勧告を拒絶して抵抗を続けていたが、五月十六日に
          五稜郭の眼前の千代ヶ岱陣屋が陥落するに及んで降伏を決意し、同月十八日に開城
          した。箱館戦争の終結とともに箱館府も廃止され、五稜郭の建物は明治四年(1891)に
          解体・撤去された。


       <手記>
           五稜郭は、函館駅や函館山などの、いわゆる外国人居留地からは離れた内陸側に
          位置しています。脇には亀田川が流れ、一応白兵戦も想定しているように見受けられ
          ます。一番のポイントは、何といっても五稜郭タワーから見下ろした全景でしょう。資金
          不足で尻すぼみになったとはいえ、その規模はかなりのものです。
           今では桜の名所としても知られており、私が訪れたときにはやや時期が過ぎていた
          ものの、普通の観光客だけでなく多くの花見客の姿も見られました。幅の広い満々と
          した水濠に、桜がよく映えるのでしょう。城内には、件の箱館奉行所の政庁舎が復元
          されており、新たな見どころとなっています。
           縄張りの面からみると、単なる星形単郭の稜堡群というだけでなく、外周は犬走り
          状の防塁と内側の砲台となる土塁の間に空堀を設け、出入り口付近では水濠となる
          ようになっています。3ヶ所ある虎口(実際に外と通じているのは2ヶ所)は、いずれも
          くぐったところに蔀土塁が設けられており、洋式要塞ではあっても、日本式築城術の
          流れもしっかり汲んでいるように感じられました。
           個人的に面白かったのは、それぞれの稜堡には大砲を塁上へ運ぶための傾斜道
          が設けられているのですが、塁の脇から登らせるものもあれば、稜堡の中心を貫いて
          道が付けられているものもあったりと、統一されていないことです。おそらく、箱館戦争
          時に何らかの理由で付け替えられたものがあるということと思われ、実戦の息遣いを
          伝える貴重な遺構ではないかと推測されます。
           そんな五稜郭は、何はともあれ函館随一の観光名所です。何より、星形に1か所だけ
          半月堡が突き出た意匠はなかなかデザインとしても格好よく、五稜郭マークのTシャツ
          でもないものかと土産売り場を歩き回ったのですが、残念ながら私には似合いそうも
          ないキラキラのラメ入りのものが1種類しか見つからず、断念しました。

           
 五稜郭タワーから望む全景。
函館〜奥尻間の飛行機から見た五稜郭。 
 同上。
復元された箱館奉行所庁舎。 
 郭内の仕切り土塁。
同上。 
 稜堡外周のようす。
 左側から、最外郭の犬走り状土塁、空堀、砲台土塁。
 搦手側なので打ち込みハギになっています。
蔀土塁。 
 大砲を運ぶ傾斜道。
郭内の平面復元部分。 
 大手の水濠と石垣。
 最上部には武者返しが付いています。
 大手側なので切り込みハギに近い手法です。
半月堡の石垣。 
 半月堡の先端方面を望む。


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