中堂寺城(ちゅうどうじ) | |
別称 : 神先氏館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 神先氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 京都市バス「大宮五条」バス停下車 | |
<沿革> 神先氏の居城とされる。神先氏は足利義政の被官武田常光を祖とし、文亀三年 (1503)に神先姓を名乗ったと伝わる。武田常光について詳しいことは不明だが、 文明十五年(1483)に徳島県阿南市にある梅谷寺を開基した人物として同じ名が 伝わっている。 『言継卿記』の大永八年(1528)一月二十八日の項には、「下中道寺と申し候う 処 本圀寺の内 柳本居候処 方々焼け候ふ」とある。柳本とは柳本賢治のことを 指すと考えられる。この前年、賢治は細川晴元・三好元長らとともに桂川の戦い で細川高国軍を破り、将軍足利義晴を追い出して幕府機能を崩壊させていた。 賢治・晴元・元長らは足利義維を堺に迎え、新たな統治機構を作ろうとしていた。 「本圀寺」とは彼ら新体制の面々を指していると推測される。彼らの内なぜ賢治が 中堂寺にいて周辺が焼けたのか、また焼けたのが中堂寺城であったのかなど、 詳しいことは明らかでない。 また『長享年後畿内兵乱記』によれば、永禄元年(1558)五月九日に将軍足利 義輝と対峙した松永弾正(久秀)の軍勢が、中堂寺に陣を布いている。ただし、 中堂寺城に着陣したのかは定かでない。 中堂寺城のその後は不明である。神先家は郷士として続き、壬生寺の東に残る 旧神先家住宅は京都市指定有形文化財となっている。 <手記> 中堂寺城は、中堂寺通の南、櫛笥通の東、大宮通の西、六条通(丹波口通)の 北にあった方形単郭の城館とされています。中堂寺は、丹波街道の起点でもあり ました。 京都市街地のなかにあり、遺構や案内等はありません。城域の北東隅に住吉 神社がありますが、当社は保延四年(1138)再興、天正十九年(1591)再々興と あるので、城があった当時は廃れていたかなくなっていたものと思われます。 |
|
城の北東隅付近にある住吉神社。 | |
中堂寺城中心付近のようす。 |