コペンハーゲン
(Copenhagen)
 別称  : コペンハーゲン城、クリスチャンスボー城、アブサロンの城
 分類  : 平城
 築城者: アブサロン
 交通  : コペンハーゲン中央駅徒歩15分(クリスチャンスボー城)
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           コペンハーゲンの歴史は、11世紀に現在のホイブロ広場付近に港が開かれたことに始まる
          とされる。1167年、デンマーク王ヴァルデマー1世の側近のロスキレ司教アブサロンが、現在
          クリスチャンスボー城のあるスロッツホルメン島に城砦を建設した。これが王都としてのコペン
          ハーゲンの起源とされるが、アブサロンの城はロスキレ司教が代々継承した。
           エーレ海峡の要衝であるアブサロンの城は、しばしば海洋権益を巡って対立するヴェンド人
          やハンザ同盟諸都市の攻撃を受けた。1249年と1369年の2度にわたり攻め落とされ、とくに
          後者の占領では再利用できないように徹底的に破壊された。同年中にハンザ同盟軍が撤退
          すると、ロスキレ司教はアブサロンの城跡に盛り土をして、その上に新しくコペンハーゲン城を
          築いた。
           1417年、デンマーク王エーリク7世は城の所有権をロスキレ司教から取り上げ、国王の居城
          として整備した。1617年には、それまで独立した町であったアマー島のクリスチャンハウンが
          クリスチャン4世によってコペンハーゲンに組み入れられ、城壁が建設された。
           北方戦争中の1657年、デンマークのフレゼリク3世がスウェーデンに対して宣戦布告すると、
          スウェーデン王カール10世はポーランドから陸路ユトランド半島を制圧した。コペンハーゲンの
          あるシェラン島はじめ、島嶼部のデンマーク領へ海を越えての侵攻はできないでいたが、その
          年の冬は猛烈な寒波に見舞われ、大ベルト海峡と小ベルト海峡が凍結した。カール10世は
          これに乗じ、ユトランド半島からフェン島をまたいでシェラン島へ歩いて渡って上陸した。虚を
          突かれたデンマークは翌1658年にコペンハーゲンを包囲され、降伏を余儀なくされた。この
          敗戦を受けて、1682〜92年にクリスチャン5世によってコペンハーゲンの城壁が強化された。
           1720年代には、コペンハーゲン城の王宮が過負荷によって崩壊した。1736年、クリスチャン
          6世は跡地に新たな宮殿を建設し、クリスチャンスボー(クリスチャンの城)と呼ばれるように
          なった。
           ナポレオン戦争にともなう1801年のコペンハーゲンの海戦、1807年の英露戦争に先立つ
          コペンハーゲンの戦いにおいて、コペンハーゲンは英国艦隊の攻撃を受けた。このころには
          コペンハーゲンの海岸線上には多数の砲台や要塞が設けられていて、主な戦闘は英国艦隊
          とデンマーク艦隊、およびこれらの防衛線の間で行われた。しかし後者の戦いでは市街地も
          大きな損害を被り、いずれの戦いでもコペンハーゲンは降伏を余儀なくされた。イギリスはこの
          とき、デンマーク艦隊を無力化したうえで没収あるいは破壊したことから、「コペンハーゲン化
          (Copenhagenization)」という言葉を生んだ。
           1850年代初めまでにコペンハーゲンの城壁は撤去され、城塞都市としての歴史には幕を
          下ろした。1794年には王宮であったクリスチャンスボー城が火災で焼失し、仮の居所として
          貴族から借り上げたアマリエンボー宮殿が、今日に至るまでデンマーク王家の居所となって
          いる。現在のクリスチャンスボー城は、2度目の火災の後に1907〜28年にかけて再建された
          3代目のものである。


       <手記>
           城塞都市としてのコペンハーゲンの跡が見られる場所は、大きく分けて3つあります。1つは
          クリスチャンスボー城、もう1つは旧市街南東部のクリスチャニア地区、そしてエスターポール
          駅南西部です。
           ボーとはデンマーク語で城という意味なので、クリスチャンスボー城というと厳密には重複
          になります。おそらくボーというのは日本語の響きとしては城砦っぽくないので、クロンボー城
          なども含めて敢えてそう呼んでいるのでしょう。現在のクリスチャンスボー城は純粋な宮殿で、
          防衛機能は期待できません。ただ周囲は水路に囲まれて浮島のようになっています。水路
          脇のアブサロン像の建つホイブロ広場がコペンハーゲンのはじまりの場所ということですから、
          歴史的な価値は高いといえるでしょう。
           エスターポール駅の南西には稜堡が部分的に残り、外堀は池となって静かな市民公園に
          なっています。駅を挟んですぐ反対側はカステレット要塞なので、合わせて訪城すると良い
          でしょう。
           個人的にもっとも面白いと思うのはクリスチャニア地区で、前後を水濠に挟まれ稜堡を数珠
          つなぎにした防衛線が2本並んでいます。言葉で説明するより、地図で見た方が圧倒的に
          分かりやすいでしょう。それぞれにとくに名称はないようなので、ここでは便宜的に外稜堡線・
          内稜堡線と呼ぶことにします。
           一般的にはクリスチャニアといえば内稜堡線の一部を指すようで、1970年代からヒッピー
          のような人たちが自治に近いコミュニティを形成する観光スポットとなっているそうです。私は
          内稜堡線の方は稜堡の1つ2つを見学しただけだったのですが、そこまで面白い感じの景色
          は見られませんでした。
           より細い外稜堡線の方を端から端まで歩いたのですが、こちらの方も車輛の入れない道
          が1本通じているだけで、稜堡ごとに家屋が点在しているという感じで十分ローカルな感じ
          でした(笑)。とはいえ子供や赤ん坊を連れた家族も歩いていて、危険な雰囲気はまったく
          ありません。コペンハーゲンの観光の中心地から歩いても15分程度で、ずいぶんと穴場感
          のある遺構を拝むことができます。

 クリスチャンスボー城。
同じくクリスチャンスボー城を外側から。 
 ホイブロ広場前の水路。
 水上スキーかなんかの大会をやってました。
外稜堡線外側の濠のようす。 
 外稜堡線内のようす。
外稜堡線の稜堡。藪の中に土塁があります。 
 両稜堡線の間の濠。
両稜堡線を結ぶ橋。 
 内稜堡線の稜堡のようす。
両稜堡線の間の浮島の稜堡。 
 エスターポール駅西側の稜堡と濠。
稜堡の土塁。 
 同上。


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