ジェヴィーン城
(Devín Castle)
 別称  : ポジョニ城、プレスブルク城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 交通  : ブラチスラヴァ市街より遊覧船またはバス
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
          ジェヴィーン城の起源については定かでない。紀元後1世紀にローマ帝国によって
         リーメスが築かれたころには、国境警備のための施設が築かれていた。発掘調査
         では、ローマ時代のものとみられる建物跡や教会跡などが検出されている。
          史料上は、東フランク王国の『フルダ年代記』に初めて登場する。それによれば、
         864年に東フランク王ルートヴィヒ2世がモラヴィア王国のラスチスラフ王を攻撃した際
         の戦場の1つとして、「ドヴィーナ(Dowina)」の城の名が見られる。
          907年にモラヴィア王国がハンガリーによって攻め滅ぼされると、ジェヴィーン城も
         ハンガリー領となった。1271年までにはハンガリー西部国境の防衛拠点として石造
         の城に改修され、1326年には初めて現在と同じジェヴィーン(Devin)の呼称が文書
         に登場した。
          14世紀末、ルクセンブルク家のモラヴィア辺境伯ヨープスト・フォン・メーレンは、
         従兄で神聖ローマ皇帝兼ハンガリー王のジギスムントに反旗を翻し、プレスブルク
         (今のブラチスラヴァ)やジェヴィーン城などを占領した。15世紀初めにジギスムント
         は城を取り戻し、ハンガリー貴族に与えた。しかし、同世紀を通じてジェヴィーン城は
         抵当として所有者を転々と変えた。その後、オスマン帝国の襲来に供えて城の防備
         は拡張されたが、以後戦闘を経験することはなかった。
          1809年、ナポレオン軍がプレスブルクを占領した際、ジェヴィーン城もナポレオンに
         よって爆破された。以後、廃墟のままで現在に至っている。

       <手記>
          ジェヴィーン城は、スロバキアの首都ブラチスラヴァの北西8km程のところにあり
         ます。ドナウ川とモラヴァ川の合流点に臨む岩山の城で、川の向こうはオーストリア
         です。ブラチスラヴァからは船かバスで行くのが一般的ですが、大した距離ではない
         ので、ここはやはりドナウ川遊覧船で優雅に向かうのがおすすめです。
          城山は基本的にはなだらかなゾウリムシ型の独立丘で、北端だけ岩肌の露出した
         険しいピークとなっています。そのため、城は大きくこの岩山を利用した主郭(主塔)
         と、その麓の第二郭、およびその下の外郭の3エリアに分かれます。外郭は城山を
         ぐるっと巡る城壁に囲まれた部分で、郭内には番所や教会、工房、市場施設の跡
         などがみられます。
          第二郭へは、竪堀と城門跡を通って入ります。主郭に比べて広い平地面積があり、
         おそらく城主の御殿が営まれていたものと推測されます。主郭と反対側の端っこに
         もう1つピークがあり、おそらくこちらにも高層建築があったものと思われます。
          第二郭の中心部には井戸が残っていて、少し離れたところにある水道で水を調達
         すれば、中に落としてみることもできます。なかなかの深さがあり、数秒経ってから
         着水の音が響きました。
          いよいよ肝心の主郭ですが、第二郭から明確な堀切を渡って行きます。この堀切
         は両サイドが薄い城壁で遮断されていて、ボックス型になっているのが特徴です。
         険しいので使える面積は限られていて、岩山の中をくり抜いて駐留スペースを確保
         しています。とはいえ水源はなさそうだったので、流石に主郭だけで籠城を続ける
         ことは困難だったでしょう。
          主塔の最上部からの眺望はもちろん抜群です。ただ周囲に大きな町はないので、
         森と川と小カルパチアの山々の景色が広がります。ウィーンまで約30kmという距離
         なのですが、やはり市街地らしきものは見えません。2つの首都の間にありながら、
         信じられないほどの静かさでした。
          ジェヴィーン城は、スロバキアにとってはシンボル的な存在とされ、かつての50
         ハリエル硬貨(現在はユーロ)の意匠となっていたほか、19世紀以降のスロバキア
         の詩にもしばしば登場するそうです。とはいえ、スロバキアは歴史上ハンガリーの
         一部であった時代が長く、独立できたのは第一次世界大戦後の1918年、運動が
         高まったのもハンガリーの首都がブラチスラヴァ(ポジョニ)からブダへ戻って以降の
         19世紀に入ってからのことです。その頃にはすでにジェヴィーン城は使い物になら
         ない廃墟になっていました。それでもスロバキアのシンボルとされているのは、
         おそらくこの城がモラヴィア王国によって築かれ、その戦場となったからでしょう。
         スロバキア人にとって、スラブ人国家のモラヴィア王国は貴重なアイデンティティー
         のよりどころといえます。スロバキアを訪れる際は、そんな複雑な歴史を少し学んで
         おくと、史跡の見方もまた違ったものになるでしょう。

 遊覧船からジェヴィーン城を望む。
外郭南東隅の城壁。 
 河岸側の城壁と塔。
外郭北辺の城門。 
現在は唯一の入城口でここから先は有料です。 
 外郭内から主城域を望む。
第二郭に入る手前の竪堀。 
 主郭を望む。
主郭上から第二郭を俯瞰。 
 ウィーン方面の眺望。
主郭岩山内の地下兵営。 
 主郭と第二郭の間の堀切を見下ろす。
第二郭のピーク。 
 第二郭の御殿建築跡。
第二郭の井戸。 
 外郭の教会跡。
第二郭と外郭の間の堀跡か。 
 外郭の市場および通路跡。
外郭南東隅の城壁および城門跡。 
 工房跡。
外郭東辺の城門跡。 
 帰りの遊覧船から遠く城山を望む。


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