ウィーン
( Wien )
 別称  : なし
 分類  : 都城、陣営
 築城者: 不明
 交通  : ウィーン国際空港より電車・バス利用で30分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ウィーンの歴史は、ケルト人の集落ウィンドボナ(Vindobona)に遡るとされる。ウィンドボナは
          ウィーンの語源ともいわれるが、ローマ後に再びウィーンが登場するまでに時間的な隔たりが
          あるため、直接的な確証はない。
           紀元1世紀末ごろまでには、ウィーン盆地一帯はローマ帝国に組み入れられ、ウィンドボナ
          に陣営が築かれた。ドナウ河岸に位置するこの陣営は、パンノニア防衛の拠点となった。また
          兵営だけでなく、陣営の南東には東西に細長く、濠で囲まれた市民区(Zivilstadt:カナバエ)
          も建設された。
           166年、マルコマンニ族がパンノニアに攻め入り、ウィンドボナでも攻防戦となった。この戦い
          を指揮したマルクス・アウレリウス帝は、180年にウィンドボナで死去した。212年、ウィンドボナ
          はコロニアに次いで権限の大きいムニキピウムに認定され、コロニアであったパンノニア属州
          州都カルヌントゥムに比肩する都市となった。3世紀ごろからゲルマン人の遺物が検出される
          ようになり、6世紀ごろになるとウィンドボナでの生活の痕跡が途絶え、他民族の侵攻や洪水・
          大火等により衰退していったものと考えられている。ただし、同時に6世紀のビザンツ帝国の
          銅貨も出土しているため、集落としては生き残っていたものと推測されている。
           ウィーンが再び史料に登場するようになるのは、『ザルツブルク年鑑』の881年の巻にみえる
          「ヴェーニア(Wenia)」という都市名においてであるとされる。955年のレヒフェルトの戦いで
          東フランク王国がハンガリー軍を撃破すると、バイエルン地方からウィーン周辺一帯に人口が
          流入した。976年には、バーベンベルク家のリーウトポルトがオストマルク東方辺境伯となった。
          バーベンベルク家はウィーンには住まなかったようだが、このころにはウィーンは地域の重要
          都市にまで回復していたとみられている。1137年のマウテルンの交換条約(Tauschvertrag
          von Mautern)では、パッサウ司教がウィーンのペーター教会を譲り受け、オーストリア辺境伯
          (オストマルク東方辺境伯からバーベンベルク家が改称)レオポルト4世がウィーン周辺の領地
          を拡大した。レオポルト4世の兄で跡を継いだハインリヒ2世は、1155年に辺境伯領の主都を
          ウィーンに遷した。翌年、ハインリヒ2世は辺境伯から伯爵へ昇格した。
           1192年、オーストリア公レオポルト5世は第3回十字軍からの帰途、イングランド王リチャード
          1世(獅子心王)を捕縛してデュルンシュタイン城に幽閉した。解放と引き換えに得た莫大な
          身代金で、レオポルト5世はウィーンに貨幣鋳造所を建設し、また1200年には新たな城壁を
          築いた。1276年、ウィーンは3度にわたる大火に見舞われ、市内の3分の2ほどが罹災した。
           1246年、オーストリア公フリードリヒ2世(闘争公)がハンガリー・ボヘミア連合軍に敗れて
          戦死した。フリードリヒ2世には男子がなかったため、バーベンベルク家は断絶し、ボヘミア王
          プシェミスル家のオットーカール2世(オタカル2世)が、ウィーンへと進出してオーストリア公を
          称した。1252年にフリードリヒ2世の姉マルガレーテと結婚したオットーカール2世は、正式に
          オーストリア公を継承した。その後、オットーカール2世は神聖ローマ帝国皇帝候補となったが、
          彼がスラブ系であることや積極拡大路線であることを嫌った諸侯により、1273年に当時は弱小
          勢力であったハプスブルク家のルドルフ1世が選出された。ルドルフ1世は、オーストリア領を
          ただちに返還するよう命じる布告を出した。オットーカール2世はこれを無視したが、ルドルフ1世
          とハンガリーの共同軍に敗れ、ボヘミアへ退いた。1278年、オットーカール2世は態勢を整えて
          決戦を挑んだが、マルヒフェルトの戦いで敗死した。これにより、ウィーンはハプスブルク家の
          領有するところとなった。だが、当初はオットーカール2世がウィーンで善政を布いていたため
          統治が安定せず、オットーカール派の名士パルトラム・フォア・デム・フライトホーフらによる反乱
          も企てられた。
           14世紀に入って、ルクセンブルク家の出身でボヘミア王を兼ねる神聖ローマ皇帝カール4世
          (ボヘミア王としてはカレル1世)がプラハを帝都として整備すると、オーストリア公ルドルフ4世
          (建設王)も、これに対抗してウィーンの建築物を発展させた。15世紀半ばにフリードリヒ3世が
          神聖ローマ帝国皇帝に即位して以降、ハプスブルク家の世襲が既成事実化し、ウィーンも帝国
          の都となった。1463年、フリードリヒ3世がウィーンを空けている間に、弟のアルブレヒト6世が
          市民を煽って暴動を起こし、急ぎ戻った兄をウィーンから閉め出すという事件が起きた。しかし、
          ほどなくアルブレヒト6世は死去し(暗殺とも)、フリードリヒ3世は宮殿に戻ることができた。
           1485年、ウィーンはハンガリー王マーチャーシュ1世に数か月包囲された後、攻め落とされた。
          マーチャーシュ1世はウィーンに留まって神聖ローマ皇帝の座を窺ったが、1490年に病死し、
          ウィーンはハプスブルク家の手に戻った。しかし、フリードリヒ3世は後にリンツへ移り、1493年
          に死去した。
           1529年、ハンガリー王を名乗るサポヤイ・ヤーノシュ(ヤーノシュ1世)の要請を受けたオスマン
          帝国皇帝のスレイマン1世によって第一次ウィーン包囲が起こったが、冬が近づいていたことも
          あり、オスマン軍はその年の内に撤退した。しかし、ヨーロッパの一大中心地がイスラム軍に
          包囲されるというのは衝撃的な出来事であり、再びのオスマン軍来襲に備えるため、1548年
          からウィーンの要塞化が進められた。この工事は17世紀後半まで続けられた。
           1683年、15万ものオスマン帝国軍による第二次ウィーン包囲が行われた。神聖ローマ皇帝
          レオポルト1世はパッサウへ脱出し、ヨーロッパ諸侯に援軍を要請した。ウィーンは、エルンスト・
          リューディガー・フォン・シュターレンベルクを守将に2万の兵が守っていた。攻城側も攻めきれず、
          守備側も包囲網を崩すことができず、戦線は膠着した。2か月の包囲の後にウィーン救援軍が
          到着し、9月13日のカーレンベルクの戦いで包囲軍は決定的な敗北を喫して撤退した。戦後の
          1704年、旧市街の外側に新しい城壁が築かれた。
           1805年、アウステルリッツの戦いでナポレオンに敗れたハプスブルク家は降伏し、ナポレオン
          は1809年にウィーンに入った。しかし、1813年のライプツィヒの戦いに敗れると、ナポレオンは
          没落した。ナポレオン後の処理を話し合う、いわゆるウィーン会議が、翌1814年から開かれた。
           1858年、ウィーン市の城壁はもはや都市の発展を妨げるものとして無用の長物化し、皇帝
          フランツ・ヨーゼフ1世の命により撤去されることとなった。ここに、都城としてのウィーンは終わり
          を告げた。壁と堀の跡は、リンクシュトラーセとして今日まで受け継がれている。

       <手記>
           ウィーンは今でこそ音楽の都といった文化の中心地として栄えていますが、もともとはローマの
          辺境防衛の陣営から始まりました。当時は北にドナウ川、西にオッタクリンク川、東にウィーン川
          が流れる中州のような地形だったようで、シュテファン広場の南端付近が、ヴィンドボナ陣営の
          南東隅であったとみられています。
           ヴィンドボナ陣営の遺構は多くはありませんが、ホーエンマルクトにはローマ遺跡展示室があり、
          地下に陣営の遺跡が保存されています。また、王宮前にも発掘されたローマ遺跡が展示されて
          います。ルプレヒト教会西の階段下には、陣営の温浴施設に使われていたとされる巨大角石が
          モニュメントとして立てられています。
           現在、ドナウ川はウィーン旧市街からは離れたところを流れていて、旧市街に直接接している
          のはドナウ運河です。よく観光客にドナウ本流と間違われるそうですが、かつてはこの運河の
          あたりを本流が走り、ウィーンはドナウ河岸に位置していました。今では運河からも少し離れて
          いるマリア・アム・ゲシュターデ教会は、当時のドナウ河岸に建てられたため、微妙にくの字に
          折れた形をしていて、かつてのウィーンの姿を知るよすがといえます。
           現在、都城ウィーンの遺構としてもっともよく残っているのは、ウィーン大学正面向かい側にある
          メルカーバスタイと呼ばれる一画でしょう。バスタイとは稜堡の意味で、文字通りかつての稜堡の
          上に住宅などのビルが建っています。メルカーバスタイの南西隅にある建物の一室はバスクァラ
          ティハウスと呼ばれ、この部屋に一時期ベートーヴェンが住んでいました。今は記念館となって
          います。
           また、旧市街東辺の地下鉄シュトゥーベントーア駅前には、1200年に築かれた城壁の一部が
          保存されています。城壁らしさはこちらの方が感じられ、こちらも城塞都市としてのウィーンを
          うかがうことのできる貴重なスポットです。
           近世ウィーンの城壁および堀の跡がリンクとなっているというのはよく知られた話で、旧市街を
          すっぽり囲っていることから、リンクの形そのままに城壁と堀があったものと思われがちです。
          ですが、実際には城壁や堀、稜堡の外側には「グラシ(Glacis)」と呼ばれる広大な空き地があり
          ました。グラシとは城壁を崩すために前進してきた敵兵を守城兵の弾幕に晒すための空間で、
          古地図を見るとグラシの総面積は旧市街の面積と同等かそれ以上あります。第二次ウィーン
          包囲までのウィーンの範囲は、北西はメルカーバスタイ、南東はシュトゥーベントーア、そして
          南西は王宮真裏のレーヴェル通りのラインで囲まれた、今の旧市街より狭いエリアとなります。
           このように、華やかな貴族的な文化芸術の都としてだけでなく、古代史や戦史の舞台として
          ウィーンを眺めるのも、たまには違った趣向でおつなものではないかと思います。

           
 王宮前のローマ陣営遺跡。
メルカーバスタイのようす。 
正面の建物内にベートーヴェン旧居があります。 
 メルカーバスタイの塁のようす。
シュトゥーベントーア駅前の城壁。 
 ホーエンマルクト地下のローマ遺跡。
ヴィンドボナ陣営の温浴施設の巨大角石。
 ウィーンでもっとも古いといわれるルプレヒト教会。
 7世紀ごろからあったともいわれています。
マリア・アム・ゲシュターデ教会。 
旧ドナウ川に沿って微妙にくの字に折れています。 


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