ディンケルスビュール
( Dinkelsbühl )
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : アンスバッハやエルヴァンゲンなどから路線バス。
       またはヨーロッパバス利用。
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1188年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ:赤髭王)が、「ティンケルスプーエル
          城(Burgum Tinkelspuhel)」を五男のコンラート・フォン・ローテンブルクに与えたとする文書が
          残っており、これがディンケルスビュールに関する史料上の初出とされる。南北と東西の2本の
          交易路が交わるディンケルスビュールには8世紀ごろから入植が進んでいたといわれ、街道を
          西に向かうとやがてフリードリヒ1世の居城が置かれたヴィンプフェンに至る。ヴェルニッツ川の
          渡河地点でもあることから、シュタウフェン朝の防衛拠点として重視されたものとみられている。
           1274年、ディンケルスビュールは帝国自由都市として認められた。しかし、その後市は統治
          権をエッティンゲン伯家に抵当に取られては買い戻しを繰り返したとされる。1372年に、現在の
          城壁の位置に市壁が建設された。また、14世紀中に市内にドイツ騎士団の館が建てられた。
           17世紀の三十年戦争では、カトリック側とプロテスタント側で計8度にわたり占領されたが、
          市街は壊滅的な破壊を免れた。
           1802年にディンケルスビュール市は帝国自由都市の地位を失い、1806年にはバイエルン
          王国に編入された。1826年に、バイエルン王ルートヴィヒ1世の通達により王国内の城塞の
          勝手な破壊が禁止された。これにより、城壁を含めた旧市街の維持が意識的に図られるよう
          になった。2度の世界大戦に際しても、ディンケルスビュールはほとんど被害を受けることは
          なかった。
 
       <手記>
           ディンケルスビュールは、ロマンチック街道のなかでもとりわけ中世の面影を色濃く残す町の
          1つとして知られています。日本人におなじみのローテンブルクからヨーロッパバスで1時間半
          ほどの近さにありながら、日本はじめ外国人旅行客が比較にならないほど少ない静かな町で、
          個人的にはローテンブルクよりおすすめです。
           都城としてのディンケルスビュールのみどころは、旧市街の外周に集中しています。市内の
          観光は市販のガイドブックなどに任せることにしまして、都城としての魅力は外周の堀や城壁、
          城門、塔などが完全に近い形で残っているところにあります。
           北のローテンブルク門、東のヴェルニッツ門、南のネルトリンガー門、西のゼークリンガー門
          の4つの大きな門が開かれ、その間に多くのサブの門や塔が立ち並んでいます。城壁の外側
          は、東が川を引きこんだ水濠となっており、北は池となっています。南側の堀跡は畑地などに
          転用されていてやや不明瞭ですが、西は空堀が二重になっているさまがよく残っています。
          残念ながら、ローテンブルクと異なりこれらの塔や城壁に登ることはできず、上からの眺望を
          望まれる方はマルクト広場の聖ゲオルク教会に登らなければなりません。 
  
 北のローテンブルク門。
怠け者の塔(ファウル塔)と「守衛小屋」。 
 東のヴェルニッツ門。
ボイアーリンス塔(農婦塔の意か)。 
 南のネルトリンガー門。
右から賢者の塔(クルーク塔)、ヘルテル塔、 
あられ塔(ハーゲルス塔)、白い塔(ヴァイサー塔)。 
 白い塔と空堀。
 西のゼークリンガー門。 
 三王の塔(ドライケーニヒス塔:手前)と緑の塔(グリューナー塔:奥)。
北西の空堀。 
 三路塔(ドライガンクス塔)の夜景。
 表題の写真と同じものです。
東の水堀端の夜景。 


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