ヴィンプフェン皇帝居城 ( Pfalz Wimpfen ) |
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別称 : ヴィンプフェン城 | |
分類 : 平山城(Höhenburg) | |
築城者: フリードリヒ1世 | |
交通 : バート・ヴィンプフェン駅徒歩5分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1182年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ:赤髭王)がヴィンプフェンに滞在した ことが記録に残っている。ヴィンプフェンの城は、フリードリヒ1世が即位した1152年から1182年の 間に築かれたと推測されているが、正確な築城年は不明である。皇帝居城の建つ丘の麓には、 ローマ時代から続くヴィンプフェン・イム・タール(谷のヴィンプフェン)の町があったが、その機能は 皇帝居城と同じ丘の上に移っていき、新たなヴィンプフェンの町として発展した。 フリードリヒ1世の曾孫にあたるドイツ王ハインリヒ7世は、父である皇帝フリードリヒ2世に対して 反乱を起こしたが、追いつめられてヴィンプフェンで降伏したと伝えられる。13世紀中葉にシュタウ フェン朝が終焉すると、皇帝がヴィンプフェンを訪れる回数は激減した。ヴィンプフェンは14世紀に 帝国自由都市として認められ、城には城代が派遣されるようになった。しかし、城の荒廃は進み、 さらに火事に見舞われるなどし、14世紀半ばには大部分の建物がヴィンプフェン市に売却された。 1622年には、三十年戦争で最も激しい合戦の1つといわれるヴィンプフェンの戦いが町の近くで 勃発した。帝国の将軍ティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる1万5千人と、プロテスタント側のゲオ ルク・フリードリヒ・フォン・バーデン=ドゥルラハ率いる1万3千人(2万人とも)が激突し、帝国軍が 勝利した。ヴィンプフェンの町はその後も略奪や疫病に悩まされ、三十年戦争後の人口は以前の 10分の1にまで激減した。町の復興は困難を極め、ニュルンベルクからの経済援助によって支え られていた。このときの感謝として、旧市街南東隅の塔には「ニュルンベルクの小塔」という名が 付けられた。 1802年、ヴィンプフェンは帝国自由都市の地位を剥奪され、ヘッセン=ダルムシュタット方伯領 の飛び地とされた。1835年には、塩泉水を利用した保養施設が建設され、その後の鉄道敷設を 契機に温泉保養地として発展した。1930年に、保養地を示す「バート」の名を公式に冠することと なり、バート・ヴィンプフェンと呼ばれるようになった。 <手記> バート・ヴィンプフェンは、ネッカー川とその支脈の合流点に突き出た舌状丘上の町です。上述 のとおり、バートが頭に付いたのは近年になってからのことで、歴史的には単にヴィンプフェンと 呼ぶのが相応しいといえます。眼前でヤークスト川とコッヒャー川がネッカー川に注ぎこむ交通の 要衝でもあります。 旧市街は古い街並みをよく残していて、温泉保養街というより歴史の町として観光客で賑って います。私はサイクリング用地図で「ここにも城跡がある」というだけで訪れたので、日本のガイド ブックにも載っている有名な観光地とは知らずに少々面食らってしまいました(笑)。 この町に皇帝居城が存在したのは200年足らずと短い期間であったうえ、その後の町の荒廃 などもあり、城の遺構は部分的です。とはいえ、当時の皇帝居城の東西両端に築かれた青の塔 と赤の塔、南端の門であるホーエンシュタウフェン門、そして居城主殿の一部建物など、見どころ はあちらこちらにあります。 青の塔と赤の塔には、それぞれ別料金で登ることができます。青の塔の方が高いようですが、 上層階は後世の改修が加えられています。赤の塔の方は中世のままの遺物といった雰囲気で、 より古城らしさが感じられたこともあり、こちらに登ることにしました。塔の上からは、東を向けば ネッカー川沿いののどかな風景、西を向けばヴィンプフェンの赤屋根の街並みと、どちらも素敵な 景色が広がります。 バート・ヴィンプフェンへは、ドイツ観光のメッカともいえるハイデルベルクから、鉄道1本で来る ことができます(本数は多くないですが)。こぢんまりとはしていますが、ハイデルベルクにも引け を取らない中世の面影を残しつつも、中国人や日本人などはあまり見かけない穴場のスポットと いえると思います。 |
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青の塔を望む。 | |
赤の塔。 | |
赤の塔からヴィンプフェン旧市街を望む。 青の塔あたりまでが旧皇帝居城の城域。 |
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南側の町の入口の門。 | |
街の南麓から赤の塔方面を望む。 赤屋根の小さな塔が「ニュルンベルクの小塔」。 |
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ホーエンシュタウフェン門。 旧皇帝居城の南端。 |
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旧皇帝居城主殿の一部。 |