土肥館(どい)
 別称  : 土肥氏館、実平宅
 分類  : 平城
 築城者: 土肥実平
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道線湯河原駅下車


       <沿革>
           平安末〜鎌倉時代初期の開発領主土肥氏の居館跡である。土肥氏は桓武平氏良文流で、
          中村宗平の次男実平が早川荘土肥郷に入植したことにはじまる。実平は、治承四年(1180)
          の源頼朝の挙兵に馳せ参じ、自領内での石橋山の戦いに敗れると、真鶴半島から頼朝一行
          を安房へ逃がし、鎌倉幕府の成立に大きく貢献した。
           実平の嫡孫維平は、建暦三年(1213)の和田合戦で和田義盛方につき、敗れて処刑された。
          維平の父で実平の嫡子の遠平はこの戦いに関与せず、所領である安芸国沼田荘へ下向し、
          維平の養子小早川景平(平賀義信の子、新羅三郎義光の孫)が家督を継承した。これにより、
          土肥館は廃されたものと思われる。


       <手記>
           頼朝の草創期を支えた武士として有名な土肥実平の館跡ですが、その場所ははっきりとは
          わかっていません。『新編相模国風土記稿』には、城願寺前の白田が館跡で、100間×70間
          の広さとありますが、同書が編纂された江戸末期にはすでに遺構はなく、伝承のみとなって
          いたようです。
           城願寺は湯河原駅の裏手の谷戸を少し登ったところにあります。谷戸といっても水利には
          乏しそうで、やや急な斜面には野菜やみかんの畑、そして住宅がひな壇状に寄り集まって
          います。寺自体もここを館とするには少々高所すぎるように思われ、寺の前とする『記稿』の
          記述には真実味が感じられます。城願寺には土肥一族の墓所があるほか、樹齢800年とも
          900年ともいわれる国天然記念物のビャクシンがあります。時代的には実平や頼朝の時代
          にはすでに生えていた可能性があり、寺伝では実平のお手植えとしています。また、嘘か
          真か実平や頼朝の腰掛石なるものもあります。
           一方、湯河原駅前のロータリーには館跡の石碑と実平夫妻の立派な銅像が建っています。
          古地図と照らし合わせると、ちょうどこのあたりが土肥城山から続く丘陵の先端に位置し、
          麓の低地を見渡すには格好の場所にあったようです。したがって、この銅像付近から、駅の
          ホーム東端あたりにかけてが、館跡の範囲だったのではないかと推察されます。

           
 土肥館跡碑。
土肥夫妻銅像。 
 城願寺本堂。
城願寺のビャクシン。 
 実平腰掛石。
頼朝腰掛石。 


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