| エッカールツベルク城 ( Eckartsberg ) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: ツェーリンゲン公ベルトルト5世 | |
| 交通 : ブライザハ駅徒歩15分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 丘の名は、5世紀のこととされる「忠実なるエッケハルト」の伝説にちなんでいる。それによれば、 ブライザハの丘にはハーレルング王が城を構えており、多大な財産を所有していた。王が没すると エッケハルトがその遺児を養育したが、ローマ王エマネリヒが財産を狙って侵攻を企てた。これを 知ったエッケハルトは戦いに備えて食料の調達へ出たが、その隙にエマネリヒは兵を率いて城を 占領し、ハーレルング王の子らを処刑した。エマネリヒが財宝を奪って撤退した後にブライザハへ 戻ったエッケハルトは、怒りと失望のあまり周辺で500人ほどの帝国兵を殺して回り、自らの死に 場所としたとされる。ただし、登場人物はいずれも実在が確認できず、伝説の域を出ない。 史料上は、1139年にエカルディ山(mons Hechardis)として初めて登場する。当時はバーゼル 司教の領有であったようで、12世紀末に丘の半分が神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に譲渡され、 エッカールツベルクには商人と兵士のみが居住を認められていた。エッカールツベルクはもともと ブライザハ城やブライザハの丘の街とは別個の山であったが、14世紀に都城が築かれると、その 内部に取り込まれた。1500年ごろから町全体の城塞化が図られると、エッカールツベルクに城砦 が設けられ、1614年以降は近代要塞の稜堡へと改修された。 オーストリア継承戦争さなかの1741年にフランス軍がブライザハを占領し、1745年のドレスデン 条約を受けて撤兵したが、その際にブライザハの要塞を爆破した。その後は、顧みられることなく イモ畑などになっていたとされるが、1806年にオベリスクを備えた記念碑が建造された。これは、 ブライザハおよびブライスガウがモデナ=レッジョ公国から、後にバーデン大公国となるバーデン 選帝侯領に移管されたことを記念して建てられたものである。バーデン大公家と祖先を同じくする ツェーリンゲン公ベルトルト5世は狭義のブライザハ城を築城した人物であり、碑文にもツェーリン ゲンの土地がバーデン選帝侯カール・フリードリヒの手に返還されたと記されている。 <手記> ブライザハ城のあるミュンスターベルクから現在の旧市街を挟んだ南側の丘が、エッカールツ ベルクです。頂部には件の記念碑が建ち、周囲は方形の城砦のような造りとなっていますが、 これは記念碑と共に建造されたもので遺構ではありません。丘の南方にはブドウ畑が広がり、 要塞の時代には稜堡や堀があったようですが、今ではきれいさっぱりなくなっています。 今日のエッカールツベルクはブライザハの旧市街とミュンスターベルクを見渡す展望スポットと なっており、城砦跡として訪れる人はまずいないでしょう。正面に聖シュテファン修道院が雄大に 建っている景色は、ブライザハで唯一無二といえます。 |
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| ハーゲンバッハ塔(左)と エッカールツベルク(右奥)。 |
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| エッカールツベルクの頂上。 城砦のようですが遺構ではありません。 |
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| 頂上の記念碑。 | |
| エッカールツベルクからミュンスターベルクと旧市街の景色。 | |
| 丘の南側のようす。 | |
| おまけ:旧市街のマルクト広場で乾杯! | |