エーレンフェルス城 (Burg Ehrenfels) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城(Hangburg) | |
築城者: フィリップ・フォン・ボーランデン | |
交通 : アスマンスハウゼン駅徒歩30分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> マインツ大司教ジークフリート2世の意を受けて、フィリップ・フォン・ボーランデンが1208年から 1220年の間に築城したとされる。フィリップが没すると、未亡人となった妻ベアトリクスは1222年 ないし1224年に、マインツ大司教に城の明け渡しを強要された。以降、エーレンフェルス城は ねずみの塔とセットで大司教の徴税用の城となった。 1301年から1307年ごろにかけて、神聖ローマ帝国の意を受けたゴットフリート・フォン・ブラウン エックが城の守備を任された。1353年にはトリーア大司教クーノ2世の抵当に入ったが、1356年 に事実上の占領という形でマインツ大司教ゲルラッハ・フォン・ナッサウが城を取り返した。1374 年には、マインツ大聖堂の宝物が難を避けてエーレンフェルス城に移された。 三十年戦争以降、エーレンフェルス城も他の城の御多聞にもれず、包囲と占領を繰り返した。 1631年から1635年には、スウェーデンに占領された。まもなく奪還されたものの、翌1636年に マインツ大司教アンゼルム・ヴァムボルト・フォン・ウムシュタットは城を焼き払って退却した。 プファルツ継承戦争が始まると、1688年から翌年にかけてフランス軍に占領された。こうして エーレンフェルス城は荒廃し、ぶどう畑に転用するために城の外郭は削られていった。 廃墟となったエーレンフェルス城は1806年にナッサウ公の所有となり、1866年にはプロイセン の領有するところとなった。1945年からはヘッセン州が管理している。 <手記> エーレンフェルス(「栄誉の岩」の意)という名とは裏腹に、完全にうらぶれた廃墟の城です。 ただ、ライン渓谷の入り口の角にあるため、目立つことは間違いありません。 下から見上げると、山肌にへばりつくように築かれており、ドイツの城の分類では「Hangburg (山肌の城)」となるそうです。ライン渓谷におけるマインツ大司教の城は、それほど多くなく、 そういう意味では貴重な遺構といえるのでしょう。 |
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エーレンフェルス城を南から望む。 |