フェルトキルヒ
(Feldkirch)
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: 不明
 交通  : フェルトキルヒ駅から徒歩5分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           フェルトキルヒとは野の教会という意味で、現在の旧市街の北東に位置するアルテンシュタットに
          建てられたとされる聖ペトロニラ教会にちなんでいる。1200年ごろにシャッテンブルク城が築かれる
          と、理由は不明だが麓の街がフェルトキルヒと呼ばれるようになり、元の村はオールドシティを意味
          するアルテンシュタットと名付けられた。
           1375年、モーントフォルト伯ルドルフ5世はフェルトキルヒの支配権をオーストリア大公レオポルト
          3世に売却した。1379年にはハプスブルク家の代官が派遣される一方で、自由権を獲得した市民
          の立場も強化された。街道の交点に位置するフェルトキルヒは交易で栄え、文化的にも発展したと
          される。
           1403年、アッペンツェル市がザンクト・ガレン修道院からの独立を標榜してアッペンツェル戦争が
          勃発すると、フェルトキルヒ市はアッペンツェル市やザンクト・ガレン市が中心となって結成された
          「越湖同盟(Bund ob dem See)」に加わった。同盟軍はボーデン湖南岸地域を席巻し、1406年1月
          には、18週間に及ぶ包囲戦の末シャッテンブルク城を攻め落としている。しかし、同盟軍は1408年
          にオーストリアおよび周辺貴族連合軍に敗れ(ブレゲンツの戦い)、ローマ王ルプレヒトの命により
          解体された。この間、フェルトキルヒで攻防があったかは定かでない。15世紀後半には街の防備が
          強化され、火薬塔などが増設された。1499年には、シュヴァーベン戦争(スイス戦争)に伴うフラス
          タンツの戦いがフェルトキルヒの南東で行われたが、やはりフェルトキルヒで戦闘があったのかは
          不明である。
           三十年戦争さなかの1647年、フェルトキルヒはスウェーデン軍に占領された。このとき市は多額
          の保証金を支払い、破壊や略奪を免れたとされる。第二次対仏大同盟戦争中の1799年にも近郊
          で戦闘が行われたが、やはり大きな被害はなかった。


       <手記>
           フェルトキルヒはオーストリア西端のフォアアールベルク州にある都市です。人口は州内2位です
          が、スイスやリヒテンシュタイン公国と国境を接しているため、見た目以上に経済規模が大きいよう
          です。旧市街は立地が特殊で、2本の山稜に挟まれた谷間にありますが、その山稜をぶった切る
          ようにイル川が流れています。すなわち山と川に三方を囲まれ、要害といえば要害ですが平地は
          限られています。それでもこの街が発展したのは、ライン川沿いの南北の街道と、アールベルク峠
          を越えてチロルへ向かう東西の街道が交わるからでした。
           他方でその地理的特殊性から、フェルトキルヒの一番の敵は人間ではなく水害だったようです。
          1910年代には街の北西のカプフシュルフトと呼ばれる渓谷を爆破して川幅を広げたものの、近年
          の地球温暖化によりさらなる河川拡幅が計画されているそうです。
           そんなわけで、土地の少ないフェルトキルヒでは城壁や堀はほぼ取り払われていますが、城塔
          や城門は以外にも点々と残っています。私が見ただけでも、1270年までに建てられ塩倉門とも
          呼ばれたクール門や、由来不明の盗人門、12世紀にはあったともいわれる粉挽門、そしで上述の
          火薬塔などがありました。
           街並みにも伝統は感じられるものの、旧市街に取り立てて観光スポットなどはありません。街を
          見下ろすシャッテンブルク城とセットで散策するのがよいでしょう。

           
 クール門。
猫の塔。 
 クール門と猫の塔。 
盗人門。 
 給水塔。
旧市街に沿って流れるイル川。 
 粉挽門。
火薬塔。 
 シャッテンブルク城西麓の城壁跡。


BACK