シャッテンブルク城
(Schattenburg)
 別称  : フェルトキルヒ城
 分類  : 平山城(Höhenburg)
 築城者: モーントフォルト伯フーゴー1世
 交通  : フェルトキルヒ駅から徒歩10分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1200年ごろ、モーントフォルト伯フーゴー1世によって築かれた。モーントフォルト家はヴァイラー
          のアルトモーントフォルト城を本貫とする一族で、フーゴー1世は新たにモーントフォルト=フェルト
          キルヒ家を興して分家した。
           1270年、フェルトキルヒの城とは後にドイツ王となるルドルフ・フォン・ハプスブルクと、同族の
          モーントフォルト=ヴェルデンベルク家の軍勢に囲まれたが、陥落を免れている。その後も多くの
          分家を生んだモーントフォルト家内での相続争いが続いたが、1375年にルドルフ5世がフェルト
          キルヒの支配権をオーストリア大公レオポルト3世に売却した。1390年にルドルフ5世が没すると
          モーントフォルト=ヴェルデンベルク家は断絶し、城にもハプスブルク家の代官が送り込まれたと
          みられる。
           1405年、アッペンツェル市とザンクト・ガレン修道院の争いからアッペンツェル戦争が勃発する
          と、フェルトキルヒ市はアッペンツェル市などが中心となって結成された「越湖同盟(Bund ob dem
           See)」に加わった。同年秋、同盟軍は修道院を支援するハプスブルク家のシャッテンブルク城を
          攻撃し、18週間にもおよぶ包囲戦の末、わずか38名で守備していた城将ハインリヒ・ヴァルター・
          フォン・ラームシュヴァークは降伏した。城は焼き払われたが、トッゲンブルク伯によってまもなく
          再建されている。
           1416年にはチューリッヒとコンスタンツの兵に囲まれ、15日の攻防戦の後に開城した。城砦は
          再び大きく破壊されたが、翌1417年にはフリードリヒ・フォン・トッゲンブルクが皇帝ジギスムント
          から城を抵当として取得し、居城として大きく改修した。1436年にフリードリヒが死去すると、城は
          再度ハプスブルク家の管轄下となり、城代ハンス・フォン・ケーニヒスエッグのもとで防備が拡充
          された。17世紀に入ると居住性を重視した改修へシフトし、ハプスブルク家の宿泊所としても利用
          されたといわれる。
           三十年戦争さなかの1647年、シャッテンブルク城とフェルトキルヒの街はスウェーデン軍に対し
          無血開城した。このとき、城と街を破壊と略奪から守るため、多額の保証金が支払われたといわ
          れる。このころには、シャッテンブルク城は戦略的な意義を失っていた。
           1778年からは監獄として使われたが、1794年までは城代フランツ・フィリップ・グッガー・フォン・
          シュタウダッハが城内に居住していた。1825年にはフェルトキルヒ市に下げ渡され、兵舎ついで
          救貧院として使用された。
           1912年に郷土博物館が開設され、第二次世界大戦を挟んで今日まで続いている。


       <手記>
           フェルトキルヒ旧市街を見下ろす丘上に築かれた平山城です。城名は直訳すれば「影の城」と
          なりますが、Schattenとは守りを意味する「schaten」という語に由来するそうです。ただ、今日の
          辞書には載っていないので、古語なのか方言なのかは不明です。
           細長い岩山いっぱいに殿舎が建てられ、城内は博物館となっています。城そのものの歴史と
          いうより、地域全体の資料や美術品を集めているようで、部屋によっては所狭しと所蔵品が並べ
          られていました。
           建物群の北東付け根側には堀切がありますが、今では石橋で埋められて防御施設としての用
          は成さなくなっています。もし近世の改修によるものとすれば、作られた時点でもはや城塞として
          使用する予定はなかったことになるでしょう。他方で堀切の向こうには馬出しのような小区画が
          あり、薄い城壁で囲まれています。ただ、こちらも防御を目的とした感じではなく、おそらくは近世
          以降に単なる玄関として設けられたのでしょう。中近世の城砦遺構としては、堀切に面した円形
          の城塔跡が見どころといえます。
           中庭はレストランとなっていて、なんでも巨大なシュニッツェルが名物と聞いて試してみました。
          ただ、たしかに大きいには大きいのですが、このくらいのサイズならウィーンに行けば珍しくない
          かなといった感じです。店員の態度も地方都市とて良いとはいえずお値段も割高で、残念ながら
          あまり満足感の高いメニューとはいえないように思いました。

           
 西側から見上げる。
堀切とそれを埋めて作られた石橋。 
 城壁の一部。
堀切前の馬出し状区画。 
 石橋越しに城内入口を望む。
堀切脇の円塔。 
 円塔内部を望む。
入り口をくぐったところ。 
 城内中庭を俯瞰。
ゴシックの間。 
 礼拝堂跡。
主塔最上階のようす。 
 主塔最上階からフェルトキルヒ旧市街を見下ろす。
 左手奥に小さくトストナー城が見えます。
南西方面の眺望。 
 城跡で飲むビールは最高だぜ!
名物のわらじシュニッツェル。 
期待したほどではありませんでした^^; 


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