深見城(ふかみ) | |
別称 : 一の関城山 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 山田経光か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、土橋、虎口 | |
交通 : 小田急江ノ島線鶴間駅よりバス 「一の関」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』では、瀬谷郷住人山田伊賀守経光が城主ではないかと推測している。 『妙光寺梵追鐘銘』によれば、経光は享徳元年(1452)には瀬谷に住していた。山田氏は藤原系 とされるが、経光をはじめ詳細は明らかでない。 『小田原衆所領役帳』によれば、後北条氏時代には周辺は西原小三郎の所領であった。しかし 深見城が西原氏の持ち城であったかは不明である。 近年行われた発掘調査によれば、使用年代は14世紀末〜16世紀末と推定されている。 <手記> 深見城は、境川の湾曲部にせり出した河岸上の城です。史料には全く登場しない城で、深見城 というのは仮称に過ぎません(『日本城郭大系』では一の関城山としています)。現在は深見歴史 の森の一画となり、森や畑の中に静かに佇んでいます。 史料の乏しさに比して、遺構の残存状況はきわめて良好です。堀はだいぶ埋まっているものの、 城の構造は肉眼でも容易に見て取ることができます。城は、主郭とその外側の帯曲輪状の曲輪 群からなっていて、主郭および外郭にはそれぞれ虎口が2ヶ所開いています。 城の西端には天竺坂と呼ばれる堀底道が走っており、城中最大の遺構となっています。往古、 この天竺坂は眼下で鎌倉古道と交わり、藤沢へと通じていたそうです。城の南西に残る一ノ関の 字名からも付近が交通の要衝であったことがうかがわれ、深見城はこれらの街道掌握の目的を もっていたと推測されます。 深見城の特徴として、規模は小さいものの複雑な縄張りをしていることが挙げられます。二重の 空堀は、横矢がかかるようクランク状に折れ曲がり、また一部の虎口は馬出状になっています。 こうした特徴から、『大系』では室町時代初期〜中期の城としていますが、実際には後北条氏の 時代までは確実に使用されていたものと推測されます。 |
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堀底道となっている天竺坂。 | |
天竺坂の石碑。 | |
深見城址の説明板。 | |
主郭のようす。 奥に土塁が見えます。 |
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主郭を取り巻くクランク状の空堀。 | |
帯曲輪と二重の空堀。 その奥に主郭の東側虎口があります。 |
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主郭南側虎口から土橋と帯曲輪を望む。 |