深沢砦(ふかさわ) | |
別称 : 深沢城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 土塁、虎口跡 | |
交通 : JR中央本線長坂駅よりバス 「中丸公民館」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 『北巨摩郡誌』に、「深沢城址、下中丸の東方にあり、城山と称し大深沢山に面せる丘陵に して武田の家臣深沢民部の城砦なりと」とある。深沢民部なる人物については不明である。 天正十八年(1582)八月二十九日、天正壬午の乱の局地戦である花水坂の戦いが深沢砦 南麓で行われた。この戦いでは、徳川方についた柳沢信俊・山高信直ら武川衆が北条氏の 「間者」中沢某を討ち取ったとされる。中沢某ら攻められた北条方の軍勢がどのような性質の ものであったか詳細は明らかでないが、『日本城郭大系』ではこのとき北条氏の軍勢が深沢 砦に陣取っていた可能性を指摘している。 <手記> 深沢砦は、釜無川とその支流大深沢川に挟まれた舌状の丘陵上にあったとされ、『大系』 によれば、3つのピークに分かれて遺構が存在するとされています。『郡誌』にいう大深沢山 がどこを指すのかは定かではありませんが、下中丸の東方にある城山というと、どちらかと いえば中丸砦の方があてはまるようにも思われます。ただ、『大系』の指摘する通り、これら 3つの峰にそれぞれ遺構が認められるのは事実です。 3つの峰にとくに名前は付けられていないようですが、ここでは便宜上北から北城・中城・ 南城と呼ぶことにします。3つ峰のなかで、もっとも手っ取り早く遺構を確認できるのは、北城 です。北城の西側は、資材置き場か何かになっていて、見通しよく城域までたどり着けます。 北城は、長い土塁線で囲まれた広大な空間です。土塁についても、単調でそれほど高さも ありません。『大系』の指摘する天正壬午の乱における北条軍が、兵の駐留用に築いたもの であることは、想像に難くありません。 北城から中城へ峰伝いに歩こうとすると、植えられて間もないと思われる植樹林に行く手を 阻まれました。木の背丈がまだ低すぎて、雑草や茨の繁殖力の方が勝ってしまっているため です。中城へは、隣接する林道から直登するのがベターです。中城は、北城とうってかわって 技巧的な城です。歩くことはできるとはいえ低木が多くて見通しは良くなく、全体的な縄張り については把握しきれませんでしたが、少なくとも土塁をもって城内を複数の曲輪に区切り、 大深沢川の谷方面に2つの虎口を開いているように見受けられます。 北側の虎口跡が中城の北端とみられ、その先には小さな谷地形があり、その向こうには また小規模な舌状地形があります。ここにも、土塁と曲輪跡と思われる削平地があります。 この部分は、ちょうど北城と中城の中間付近にあたり、両者の関係はかなり緊密であったと 推測されます。 他方で南城は、中城とは尾根続きで繋がっているというのに、自然地形が続いています。 というよりも、南城は3つのなかでもっとも遺構の確認が困難です。ピークの周縁に土塁跡と 思われる土盛り状地形が認められるほかは、私が見たかぎり造作はみられませんでした。 南城へは、先述の通り中城から尾根伝いに行くこともできますが、上の地図には掲載されて ないものの、西麓に数軒の別荘のような家屋が建っており、その脇から登ることもできます。 相対的にみて、少なくとも北城と中城の2つは、北条氏によって築かれたか改修されたもの とみて良いのではないかと思われます。他方で、南城だけが抜きんでて造作に乏しいという 点が気になります。南城については、深沢民部なる人物の城砦だったとみることもできるかと は思いますが、先の別荘地を除けば周囲には寒々たる植樹林が広がるのみのこの台地上 に、はたして在地領主が城を築くものか疑問です。あるいは、南城は武田氏によって烽火台 として使われていたとも考えられますが、推測の域を出るものではありません。 |
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中城の土塁。 | |
同上。 | |
同上。 | |
中城の虎口跡か。 | |
同上。 | |
虎口跡へ直登する尾根。 旧登城路か。 |
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中城と北城の間の舌状の削平地。 | |
舌状削平地にともなう土塁。 | |
北城の土塁。 | |
同上。 | |
南城の中心部のようす。 右手前から左手奥へ土塁が巡っているようにみえます。 |