福井城(ふくい)
 別称  : 福居城、北ノ庄城
 分類  : 平城
 築城者: 結城秀康
 遺構  : 石垣、濠、井戸
 交通  : 福井駅徒歩5分


       <沿革>
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより徳川家康の次男結城秀康が越前68万石を
          得ると、北ノ庄を居城地と定めた。北ノ庄には織田家臣柴田勝家が築いた北ノ庄城
          あったが、秀康の居城はそれとは本丸の位置も縄張りも異なる新城として築かれた。
          縄張りは、結城家臣吉田修理好寛が主に担当したとされるが、本丸については家康
          自身が手掛けたともいわれる。同十二年(1607)に秀康が病没したことにより総曲輪
          の建設が中止されたとされ、この時点で完全ではないものの完成をみたものと推察
          される。
           寛永元年(1624)、3代藩主松平忠昌(秀康の次男)は、「北ノ庄」の「北」が敗北に
          つながるとして、城名と地名を「福居」へと改めた。18世紀に入るころには、「福居」の
          字がさらに「福井」へと転じたとされる。福井(福居)の名は、一説には「福の井」という
          今も天守台脇に残る井戸にちなむとされる。
           寛文九年(1669)、火災により4層5階の天守を焼失した。その後、2重であった本丸
          巽櫓を代用としたが、公には天守のない城となった。越前松平家は家中混乱や分封
          を繰り返して最終的に32万石となったが、断絶はすることなく幕末まで続いた。


       <手記>
           福井市のシンボルともいえる福井城跡は、建物こそ残っていませんが、本丸の広い
          水濠と優美な高石垣がそっくり旧状をとどめています。2008年には本丸御廊下橋が、
          小生が訪れた2018年にはその先の山里口御門が復元され、大きな見どころとなって
          います。山里口御門は内部も公開されています。
           山里口御門の脇はすぐ天守台で、その付櫓台には福井の地名の由来といわれる
          福の井が現存しています。御門復元に合わせて作られたのが木製の覆屋が上がり、
          企画期間中だったのかそばに係員がいて井戸の汲み上げ体験をさせてもらえました。
          年間を通じて水位が変わらなかったから福の井と呼ばれたとの伝承もあるようですが、
          私のときも釣瓶がすぐいっぱいにできるほど水量豊かでした。
           城内にこのほかには建物がないので、ひとしきり石垣を愛でて見学は終了です。
          県庁や県警本部など本丸の建物を移し、城跡を復元整備しようという機運も一部では
          高まっているようです。某お城業界の泰斗の大学教授も、史跡保存に前向きでない
          なんて許せないでもという感じに気炎を揚げているようです。ですが、公官庁移転には
          莫大なお金がかかります。そして、その原資は住民の血税です。金銭面でも全面的
          にバックアップするとでもいうならいざ知らず、個人の理想を他人の金で実現するのが
          所与とでもいうような発言には閉口せざるを得ません。


           
 水濠越しに望む天守台。
御廊下橋と山里口御門。 
 山里口御門。
福の井。 
 天守台。
天守台頂部。 
 本丸南西隅の濠と石垣。
おまけ:アンニュイな表情の結城秀康像。 


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