北ノ庄城(きたのしょう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 柴田勝家
 遺構  : 石塁、堀跡
 交通  : 福井駅徒歩5分


       <沿革>
           天正三年(1575)、朝倉氏滅亡後に越前国を席巻していた越前一向一揆を平定した
          柴田勝家は、織田信長から同国内8郡49万石を与えられた。勝家は、足羽川と吉野川
          の合流点に自らの縄張りで居城を築いた。これが北ノ庄城である。朝倉氏時代には、
          一門の朝倉景行の館があったともいわれる。景行は同元年(1573)の刃根坂の戦いで
          討ち死にしている。
           天正九年(1581)に北ノ庄を訪れた宣教師ルイス・フロイスによる本国宛ての報告に
          よれば、当時まだ普請が続いていて、建物は美しい色の石で葺かれていたとされる。
          この石は、足羽山で算出される笏谷石と推定されている。
           天正十年(1582)四月二十日、賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄城へと撤退
          したが、同月二十三日には羽柴秀吉勢に城を囲まれた。秀吉が小早川隆景に宛てた
          書状によれば、翌二十四日未明には「本城」に攻めかかり、天主に200名ほどが立て
          籠もっていたが、夕刻には勝家が妻子を刺し殺し、十文字に腹を切って自害した。生き
          残った80人ほども後を追い、天主には火が放たれ悉く焼け落ちたとされる。同書には
          天主が九重であった旨が記されているが、「九重」は多層の意味で実際には7層程度
          であったとする説もある。ただし、同書には勝家が九重目まで上がって切腹したとする
          記述もある。また「城中ニ石蔵ヲ高築」という一節から、基壇の石垣内側の地下階まで
          を含めて9階建てとする見方もできる。そもそもとして、同書は毛利家中へ戦果を誇示
          するために送られた書状であることから、内容の正確性については留保も必要である。
          戦後、北ノ庄城は一旦廃城となったとも考えられるが、詳細は定かでない。
           天正十三年(1585)、堀秀政に北ノ庄18万石が与えられ、城も復興の途についたもの
          とみられる。慶長三年(1598)、秀政の子秀治は越後国春日山城30万石へ加増・転封
          となり、代わって秀吉の義甥の小早川秀秋が筑前国名島城37万石から北ノ庄15万石
          へ大幅に減封されて移された。
           秀吉死後の翌慶長四年(1599)、秀秋は五大老の裁定により名島城へ旧領復帰し、
          越前府中城主であった青木一矩が、20万石で北ノ庄城主となった。翌五年(1600)の
          関ヶ原の戦いに際し、一矩は西軍に属した。本戦で西軍が敗れると、東軍の前田利長
          が越前に進軍したが、敵軍が目の前に迫るなか、一矩は病没した。主なき城は降伏を
          余儀なくされ、戦後は徳川家臣保科正光が一時城番を務めた。
           同年、徳川家康次男の結城秀康が越前68万石に封じられ、秀康は北ノ庄を居城地
          と定めた。秀康に始まる越前松平家のこの居城は、3代忠昌により「福居城」、次いで
          「福井城」と改められるが、それまでの北ノ庄城との連続性については賛否両論ある。
          ないとする説を採るならば、勝家が築いた北ノ庄城の歴史はこのときに幕を閉じたこと
          になる。


       <手記>
           勝家の北ノ庄城は足羽川と吉野川の合流点を本丸としていたとされ、吉野川は近世
          福井城に百間堀として取り込まれていました。その本丸推定地は福井城本丸の南方、
          現在の柴田神社付近であったと推定されています。そのため、勝家の北ノ庄城と近世
          の福井城は縄張りはおろか主郭の位置も異なるということになり、別個の城として扱う
          のが妥当であろうというのが個人的な見解です。
           柴田神社の本殿下や境内からは、発掘調査によって断片的に石垣や堀の跡が検出
          されています。ルイス・フロイスの報告にたがわず青緑色につやめく笏谷石の石積み
          で、福井城のものとは明らかに異なります。ただ、この石積みが北ノ庄城本丸のもの
          であるとまでは断言できないそうです。
           この通り、北ノ庄城の遺構は福井の城と市街の下に埋もれているため、福井市中の
          発掘が周辺で行われない限り、新たな発見はないでしょう。
           ちなみに柴田神社では、勝家とともに自害した妻お市の方にあやかり、美モテ祈願
          というものを行っています。私も男性ながらせっかくなのでチャレンジしてみましたが、
          残念なことに今のところ効果は実感できていません(笑)。


           
 北ノ庄城推定本丸跡(柴田神社)。
発掘された石列。 
 同じく石列および堀跡。
境内の柴田勝家像。 
 同じく美モテ祈願のお市と娘三姉妹の像。


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