普門寺城(ふもんじ)
付 富田寺内(とんだじない)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 三好長慶
 遺構  : 土塁
 交通  : 阪急京都線富田駅徒歩10分


       <沿革>
           臨済宗慈雲山普門寺は、明徳元年(1390)に説厳によって開かれた。永禄四年(1561)、
          三好長慶は反目と和解を繰り返してきた旧主の細川晴元を普門寺に幽閉した。城郭構えは
          このときに築かれたものと推測される。以後、晴元は表舞台に復帰することなく、同六年(15
          63)にこの地で死去した。
           長慶死後の永禄九年(1566)、三好三人衆に擁立された足利義栄が越水城から普門寺に
          移った。将軍宣下を受けた。同十一年(1568)には将軍宣下を受けて14代将軍となったが、
          翌十二年(1569)九月には織田信長が足利義昭を奉じて上洛した。そのころ義栄は腫物を
          患っており、阿波の撫養に下向したものの力尽きて没したとされる。九月の時点で普門寺で
          死去していたともいわれるが、いずれにせよ九月三十日には普門寺のある富田が織田勢に
          焼き払われた。これにより普門寺は荒廃したとみられ、江戸時代の初めに龍安寺の末寺と
          なるまでの動静は定かでない。
           また、普門寺の南の教行寺を中心として、一向宗の富田寺内が形成されていたとされる。
          晴元は長慶の父・元長を排除するために一向一揆を起こさせ、その勢いに恐れをなすと、
          今度は法華一揆を誘発して一向宗を弾圧した。しかし、天文五年(1536)にはその法華宗
          (日蓮宗)と対立し、延暦寺と共に京都の法華宗を壊滅させた。同年に晴元は富田坊再興
          を許可し、寺内町が発展したとみられている。すなわち、晴元が幽閉された普門寺城と富田
          寺内は併存していたものと推測される。
           富田寺内は、前述のとおり織田信長によって焼き討ちされ、普門寺もろとも衰弱した。


       <手記>
           普門寺は江戸時代に勢力を盛り返したようで、方丈が重要文化財に、庭園が国の名勝に
          指定されています。かつては寺域についても、三輪神社境内はもとより東方の筒井池まで
          が境内だったとされ、細川京兆家元当主を幽閉したり管領将軍宣下を行ったりするに相応の
          規模を有していたようです。
           門前に説明板がありますが、拝観は有料かつ要予約とのことで内部には入っていません。
          ただ、西辺から北辺にかけての土塁が残り、外から眺めることができます。おそらく、最終的
          には将軍(候補)義栄の居所として整備されたものでしょう。
           富田寺内については、教行寺は今も残っているものの、旧状をうかがわせるものはとくに
          ありません。江戸時代には酒造りで栄えたそうで、現存する酒蔵2軒のうち清鶴酒造の方は、
          旧寺内にあたるのではないかと思われます。その範囲を推測するに、普門寺境内と南北に
          並んでいたように見え、あるいは相互補完的な関係にあったのかもしれません。

 普門寺。
門前の説明板。 
 西辺の土塁。
同上。 
 北辺の土塁。
清鶴酒造。 
富田寺内にあたるものか。 


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