越水城(こしみず) | |
別称 : 小清水城、腰水城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 瓦林正頼 | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪急神戸線/甲陽線夙川駅徒歩15分 | |
<沿革> 永正十三年(1516)に瓦林城主瓦林(河原林)正頼によって、新たな居城として築かれた。 永正十六年(1519)、細川澄元・三好之長の軍勢が四国から摂津に上陸して細川高国派 の正頼が拠る越水城を攻囲し、翌年(1520)二月に落城させた。同年五月の等持院の戦い で之長が敗死し、澄元も撤退すると、正頼は越水城を回復した。 同年十一月十四日、正頼は高国から謀叛の疑いをかけられ、自害を命じられた。瓦林氏 自体はは存続したが、誰が越水城主となったのかは定かでない。 その後、時期は不明だが三好氏の手に渡ったとみられ、享禄五年(1532)に三好元長が 一向一揆に攻め殺されると、瓦林氏の一族が一揆勢と結んで越水城を奪った。しかし、翌 天文二年(1533)には、元長の子長慶に奪い返されている。 天文八年(1539)、長慶は幕府に河内十七箇所の代官職を要求した。同職は父元長が 任命されていたものの、一族でありながら政敵でもある三好政長に奪われていた。だが、 要求は容れられず、摂津に留まった長慶は越水城に入り居城とした。同十年(1541)には、 伊丹城主伊丹親興に城を攻められたが、撃退している。 天文二十二年(1553)、長慶は居城を芥川山城へ移し、越水城には重臣松永久秀が入れ られた。永禄二年(1559)に、久秀が大和へ攻め入り多聞山城を築くと、瓦林三河守が越水 の城主となったとみられる。三河守は、越水城を築いた正頼の一族と推察されるが、系譜に ついては詳らかでない。 長慶没後の永禄九年(1566)、久秀と対立する三好三人衆方の重鎮・篠原長房が、四国 から攻め上って越水城を落とした。越水城は四国勢の拠点となり、三人衆が擁立した足利 義栄も、この城に上陸している。 永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、長房は越水城を蜂起して 四国へ退いた。城主には、三河守が復帰したものとみられる。 元亀元年(1570)九月、長房が再び上陸し、越水城を攻め落とした。三河守は討ち死にし、 瓦林氏も滅んだといわれる。しかし、同年中に長房は信長と和議を結んで撤退し、越水城は そのまま廃城となったものとみられる。 <手記> 10年以上にわたり三好長慶が居城としていた越水城ですが、その正確な位置はいまなお 分かっていません。さまざまな傍証から有力視されているのが、現在の大社小学校付近で、 敷地南東隅には石碑と説明板が設置されています。 『瓦林正頼記』によれば本城と外城があったということから、城域は丘陵先端の西田公園 付近まで及んでいたと考えられています。少なくとも長慶が居城としていた時期には、それ くらいの規模があって然るべきように感じます。いずれにせよ、はっきりした遺構は確認され ていないので、推論の域を出るものではありません。 越水の地名は「小清水」に発し、良質の湧き水が得られたことに因んでいます。学校東麓 には今も井戸が2基残っているそうなのですが、リサーチ不足で見そびれてしまいました。 今では謎の城となってしまった越水城ですが、一説には天守建築があったのではないか といわれています。ただし、その根拠は付近の伊丹城にやはり天守建築があった可能性が 指摘されていること、戦前の古図に櫓台状の土塁が描かれていることの2点ということで、 推測の域を出るものではないようです。 個人的には、少なくとも最古級の天守建築があったとする説には反対です。まず第一に、 平野の中の小丘に築かれた伊丹城と異なり、越水城は比較的高さのある丘陵を利用して おり、眺望のための高層建築は必要なかったと思われます。第二に、物見ではなく魅せる 建築としての天守とするなら、古図の土塁はむしろ狭すぎるように見えます。そして第三に、 越水城に天守建築があったのなら、長慶のその後の居城である芥川山城や飯盛山城にも 同様の高層建築があって然るべきですが、そのような話を聞いたことがありません。 長慶の居城の1つとして、それなりの規模と威容を備えていたとは思いますが、いたずらに デコレーションしてしまうのは、控えたほうがよいように感じます。 |
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大社小学校南東隅の石碑と説明板。 | |
石碑付近から東方を望む。 | |
西側から大社小学校敷地を見上げる。 |