船岡山城(ふなおかやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 山名宗全、大内政弘ら
 遺構  : 土塁、空堀
 交通  :  市バス「船岡山」または「建勲神社前」バス停下車


       <沿革>
           応仁元年(1467」)の応仁の乱に際して、西軍の拠点として山名宗全らによって築かれた。
          当時は山の東側と西側は切り立った崖で、東麓には大きな池があったという。
           以来西軍の拠点として機能したが、翌二年(1468)九月七日の東軍の攻撃により落城し、
          山名教之の家臣小鴨安芸守之基らが戦死した。城はそのまま使用されることなく廃されたと
          みられている。
           永正八年(1511)八月二十三日、船岡山に陣取っていた細川澄元勢を、大内義興・細川
          高国らの軍勢が攻撃した(船岡山合戦)。この戦いは、足利義稙vs.足利義澄、細川高国vs.
          細川澄元、畠山義元vs.畠山義英など各家の内紛を体現したものであった。敗れた澄元は、
          義澄(合戦の9日前に逝去していた)の遺児(後の義晴、義維)を連れて阿波へ逃れた。
           その後、船岡山が取り立てられることはなく、打ち捨てられたものと思われる。


       <手記>
           船岡山のバス停から今宮神社の参道の逆に進むと、船岡山公園の登山道に当たります。
          建勲神社の案内板にはかまわずに登っていくと、園内に船岡山戦跡の石碑と案内板があり
          ます。さらに尾根筋に沿って歩くと、幾条か空堀のようなものを目にすることができます。
           頂上まで登ると、この山がまさしく洛中に浮かぶ船のような、陣城には格好の山であること
          が分かるでしょう。基本的に陣城としてしか使用されていないので、遺構はついては多くを
          望むべきではないでしょう。

           

 船岡山戦跡の石碑。
空堀跡か。 
  同上。


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