古市城(ふるいち) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 古市氏 | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR奈良駅または近鉄奈良駅から バスに乗り、「東市小学校」下車 |
|
<沿革> 大和国人古市氏の居城である。古市氏は舎人親王の孫・清原夏野の末裔を称して いるが、出自について興福寺大乗院衆徒という以外は定かでない。正中二年(1325) に古市但馬公の名が見えるのが、史料上の初出とされる。1380年代には、古市胤賢 が筒井順覚らと並んで衆中沙汰衆となっており、興福寺衆徒を代表する勢力の1つで あったことがうかがえる。早ければ胤賢のころに、居館の城砦化がなされていたとも 考えられるが、古市城の築城時期については詳らかでない。 嘉吉三年(1443)に興福寺大乗院門跡経覚と、成身院光宣・筒井順永兄弟が対立 すると、胤賢の孫胤仙は経覚に与した。翌文安元年(1444)に、史料上初めて古市城 の存在が確認されている。翌二年(1445)、経覚方は奈良の拠点である鬼薗山城を 攻め落とされ、胤仙は古市城に退いて戦いを続けた。 文安四年(1447)、胤仙は経覚を強引に古市城へ招き入れた。筒井氏への対抗上 や、味方の不満を抑えるために経覚の権威を利用しようとしたものといわれ、何度か 退去しようとした経覚をそのたびに押しとどめたとされる。享徳二年(1453)に胤仙が 没すると、経覚と光宣・順永兄弟は和睦した。 胤仙の跡は長男胤栄、ついで次男澄胤が継いだ。筒井氏や箸尾氏の一時衰退も あり、澄胤の代に古市氏は最盛期を迎えた。古市城には総構えが設けられたほか、 風呂や茶の湯の設備もあったとされる。事実上の大和守護である興福寺に対して、 守護代に相当する地位を築いた澄胤は、公家や文化人を招いてしばしば宴や催しを 行い、古市城は戦国の一大サロンとして機能したといわれる。 しかし、古市氏の栄華も長くは続かなかった。復帰した筒井氏ら大和国人の多くと 対立した澄胤は、細川政元が送り込んだ赤沢朝経と結び、永正四年(1507)の永正 の錯乱で政元と朝経が死ぬと、改めて政元の養子澄元が派遣した朝経の子長経を 迎えた。長経と澄胤は、翌五年(1508)に河内の畠山尚順と戦って敗死し、その後の 古市氏は急速に勢力を減退させた。 澄胤の子公胤は筒井氏との戦いを継続したが、やがて抗しきれなくなり、古市城を 焼き払って大平尾へ撤退した。以後も旧領回復を画策したものの、ついに古市氏が 古市に復帰することはなかった。古市城も、再び取り立てられることはなかったもの とみられる。 <手記> 現在の東市小学校が古市城の本丸跡、小谷戸を挟んだ北側の県営高円団地が 二の丸跡と推定されています。校庭の南西突端に城址碑があるのですが、碑文が 外側を向いているため、南西麓から校内への通用路から斜面伝いに、下向途中の 生徒たちの視線を感じながらよじよじと近づかなければなりませんでした。校門には 先生がいらっしゃったので、「城跡を見学に来ました」と言うと分かってもらえました。 敷地内には遺構らしきものは見られませんが、校庭に櫓風の朽ちた木造建造物が 1基ありました。 ぐるっと小学校の東側へ回ると、ごく浅い谷戸田になっていて、自然の地形を利用 した堀跡であることは容易に想像できます。二の丸については団地や宅地になって おり、城跡に繋がるものは確認できません。 最盛期の古市城は外郭を具えていたとされ、麓の集落西辺には、田んぼの段差と して堀跡のラインが確認できます。また、団地北端の西方には道が鉤の手に折れて いる箇所があり、大手とみられています。 |
|
古市城址碑。 | |
本丸跡の東市小学校からの眺望。 | |
本丸跡の東市小学校のようす。 | |
校庭にあった櫓風の木造遊具。 | |
小学校西側の谷戸を利用した堀跡。 | |
本丸側から二の丸跡を望む。 | |
二の丸跡の団地。 | |
大手とみられる鉤の手。 | |
総構えの堀跡のライン。 |