鬼薗山城(きおんざん) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 古市胤仙 | |
遺構 : なし | |
交通 : 近鉄奈良線近鉄奈良駅徒歩15分 | |
<沿革> 嘉吉三年(1443)、興福寺大乗院門跡経覚と興福寺衆徒の成身院光宣・筒井順永兄弟 は摂津河上五ヶ関の代官職を巡り対立した。『経覚私要鈔』によれば、翌文安元年(1444) 一月に経覚派の古市胤仙が鬼薗山への築城を計画したが、大乗院の境内であることから 難航が予想されたため、先に隣の西方院山での工事を開始した。しかし、途中で鬼薗山の 普請が可能となったため、西方院山城は未完のまま放置され、鬼薗山城が築かれた。 翌文安二年(1445)九月、鬼薗山城は光宣・順永方に攻められ、自焼した。光宣は城を 修築し、そのまま城主となった。 享徳二年(1453)、胤仙と越智氏の軍が鬼薗山城を攻め、光宣の弟の筒井尊覚(順永の 兄)が討ち取られたものの、落城は免れた。しかし、康正元年(1455)八月に攻め落とされ、 中坊懐尊が在城したとされる。 同年、光宣に続き筒井氏も没落したため、戦乱の去った鬼薗山城はランニングコストの かかる無用の長物となった。長禄二年(1458)九月、ついに廃城が決まり、20日間ほどを かけて破城された。『大乗院寺社雑事記』によると、堀は悉く埋められ、崩れた土砂が麓の 大乗院境内の池に流れ込んだため、これを浚う作業も行われたとされる。 <手記> 鬼薗山城跡には明治四十二年(1909)に奈良ホテルが建造され、もともと徹底的に破城 されていることもあり、遺構はおろか構造を読み取るのもほとんど不可能です。南麓にある 旧大乗院庭園は一般に公開されているので、ホテルのゲートから庭園に至るまでのルート は、歩いても大丈夫のようです。とはいえ遺構はありませんので、なんとなく周囲から山を 眺めるほかありません。 まぁ、そのうち機会があれば、由緒ある奈良ホテルに一度は泊まってみたいものです笑 |
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奈良ホテルゲート付近から城山を見上げる。 | |
旧大乗院庭園を見下ろす。 | |
北の荒池越しに鬼薗山城跡を望む。 |