願海寺城(がんかいじ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 寺崎氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 富山駅またはあいの風とやま鉄道小杉駅 からバスに乗り、「富山短期大学前」下車 徒歩3分 |
|
<沿革> 越中国人寺崎氏の居城とされるが、築城の経緯や寺崎氏の出自などは不明である。 天文十九年(1550)、城主寺崎行重は畠山氏に属していたが、上杉謙信に攻められて 敗死した。跡を継いだ子の民部左衛門盛永は、上杉氏や越中守護代神保長職らの間を 巧みに立ち回り、勢力を維持したとされる。 天正六年(1578)に謙信が死去して御館の乱が勃発すると、盛永は織田信長に服属 した。しかし、同九年(1581)に上杉方への内通を疑われ、織田家臣菅屋長頼によって 五月五日に願海寺城を攻め落とされた。盛永とその子・喜六郎は捕縛されて佐和山城 へ送られ、七月十七日に自害を命じられた。寺崎氏の滅亡をもって、願海寺城も廃城と なったとみられている。 <手記> 願海寺城は四方平らな平野部のただ中にある平城です。上に図示した点に説明板や 石碑があり、昔から比定地とされていたようですが、その付近が城跡であると確定した のは比較的近年のことだそうです。 いわく石碑から道路を挟んだ東側の民家の建設に伴う発掘調査が2002年に実施され、 曲輪跡や二重の堀跡、井戸などが検出されています。また、表に「多(た)て王(わ)き」、 裏に「暫王り多て己」と墨書された木簡も出土し、城や戦に関連するものとみられている そうです。さらに、北東の富山自動車整備専門学校付近で2004年に行われた発掘調査 では、家臣団屋敷と推定される区画の溝跡も見つかっています。 付近は字「舘本」といい、かつては城跡の東から南に街道が回り込むように走っていた おり、「願海寺の七曲り」と呼ばれていたそうです。今では遺構はおろか土地改良などに よって地形も旧状を留めていませんが、戦国の世を逞しく泳ぎ渡った寺崎氏の散り様を 見るような感慨に浸っていました。 |
|
願海寺城跡石碑。 | |
二重の堀などが見つかった民家付近の現況。 |