佐和山城(さわやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 佐々木定綱
 遺構  : 曲輪跡、石垣跡、井戸跡、堀切
 交通  : JR琵琶湖線彦根駅徒歩15分


       <沿革>
           「三成に過ぎたるもの」とまでいわれた石田三成の居城として知られている。起源は、鎌倉時代
          に近江守護佐々木定綱(またはその子時綱)が砦を築いたことにはじまるとされる。その後、江南
          の六角佐々木氏と江北の京極佐々木氏の間で対立が深まると、佐和山城は両者の境目の城と
          して壮絶な争奪戦を繰り広げることになった。
           戦国時代に入って京極氏の代わりに浅井氏が台頭し、佐和山城も浅井氏の持ち城となった。
          永禄十一年(1568)に織田信長が浅井長政と同盟を結んで上洛すると、東山道(今の中山道)を
          直下に掌握する佐和山城の重要性は増すばかりであった。
           元亀元年(1570)に長政が同盟を破棄すると、信長は佐和山城の四方に対の城を築いて攻城
          にかかった。しかし、武勇で聞こえた城将磯野員昌の抵抗は激しく、8か月の籠城に耐えた。結局
          力攻めで落とすことはできず、姉川の合戦により兵糧の補給が絶たれたところに、員昌内通の噂
          を浅井側に流したことで、翌二年(1571)二月にようやく開城に至った。城は織田家宿将丹羽長秀
          に預けられ、天正七年(1579)の安土城築城までは信長自身の近江の本拠地としても使用されて
          いた。このことからも、佐和山城がいかに重要視されていたかがわかる。
           天正十年(1582)の本能寺の変とその後の清洲会議を経て、佐和山城は堀秀政に与えられた。
          秀政の留守中は、弟の多賀秀種が城代を務めたとされる。同十三年(1585)には、近江八幡城主
          豊臣秀次の付家老として、堀尾吉晴が佐和山城に入った。
           天正十八年(1590)、吉晴は浜松城12万石へ加増・転封となった。代わって佐和山城主となった
          のが石田三成だが、その入城時期については諸説ある。また、当初は独立した大名ではなく城代
          および蔵入地代官の立場にあったともいわれる。三成の時代に五重の天守が上げられたといわれ
          る。規模については異説もあるが、近年の発掘で天守台と目される石垣の痕跡や瓦が検出され、
          なんらかの天守建築は存在したとみられている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍が敗れると、逃亡した三成の捜索が続くなか、佐和山
          には東軍1万5千の兵が押し寄せた。対する籠城側は、三成の父正継以下2800人程度であった。
          一度は家康との開城の交渉がもたれたものの、その間に田中吉政の兵が搦手を突破したことから
          城は陥落し、石田一族はことごとく自決して果てたとされる。
           戦後、三成の旧領は徳川四天王の1人井伊直政に与えられた。直政は佐和山城に入ったもの
          の、三成の居城であったことを嫌い、西隣の磯山に彦根城の新規築城を計画した。佐和山城の
          遺構は新城普請のために徹底的に持ち去られ、佐和山城は長い歴史の幕を閉じた。


       <手記>
           佐和山城跡を訪れて思うのは、彦根城が築城400年祭に湧いているのとはあまりにも対照的な
          扱われ方をされている現状です。たしかに建材は持ち去られ破城も行われたとみられていますが、
          それまで要衝中の要衝として栄えた城とはおよそ想像のつかないほどの山の荒れようです。
           おそらく、原因は安土城などと同様、山が龍潭寺という寺院の所有に帰していることにあるので
          しょう。寺社仏閣は宗教以外の文化財に関して無分別無配慮のため多くの城跡が泣いているの
          ですが、佐和山もその代表格と言ってよいようです。近年ようやく本格的な調査が始まりつつある
          ようですが、一刻も早い史跡としての整備がなされるよう願うばかりです。
           城跡へは、彦根駅西口から線路沿いの大通りを北へ向かい、バイパスの跨線橋手前で線路下
          の地下道をくぐり、そのまままっすぐ山へ向かうと登山道があります。あるいは駅前から観光周回
          バスに乗って先の龍潭寺の前で降りると、管理の行き届いていない薄暗い寺の裏から登るルート
          もあります。
           直下を旧中山道が走っているうえに、登ってみてもまた遠くから山を眺めてもすぐ分かると思い
          ますが、とにかく形も位置取りも良い山です。天下分け目の敗者となった石田三成の居城でさえ
          なければ、今でも彦根城ではなく佐和山が近江の都城であり続けたであろうとしみじみ感じます。
          その意味でも、名城としての要件を備えすぎていたがために、運命に翻弄され続けた城であった
          とも言えるでしょう。

           
 彦根城から佐和山城を望む。
山麓の清涼寺から佐和山を望む。
清涼寺は島左近清興の屋敷跡と伝わっています。 
 東麓の中山道鳥居本宿側から望む。
 こちらが大手口でした。現在大手から登る道はありません。
大手土塁の跡。 
 本丸の石碑。
本丸から彦根城を望む。
 千貫井戸跡。
西の丸跡。説明板には硝塩櫓跡と書いてある。
 西の丸下の堀切道。


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