元寇防塁(げんこう)
 別称  : 石築地
 分類  : 防塁
 築城者: 鎌倉幕府
 遺構  : 石塁、土塁
 交通  : JR筑肥線下山門駅徒歩5分
       地下鉄空港線藤崎駅徒歩5分ほか


       <沿革>
           文永十一年(1274)の文永の役で、九州に襲来した元(モンゴル)軍が撤退すると、鎌倉幕府は
          外国の侵攻に対抗するための沿岸防備施設が必要であると考えた。建治二年(1276)三月、幕府
          は玄界灘の沿岸約20kmにもおよぶ「石築地」の建設を命じた。九州一円の御家人や荘園領主が
          総動員され、田1反につき1寸の割り当てで普請が進められた。担当区域により工法が異なるほど
          の突貫工事の末、同年八月には一応の完成をみたといわれる。
           弘安四年(1281)に再び元軍が攻め込んできたが(弘安の役)、日本軍は防塁を盾に応戦体制を
          整えていたため、元軍は博多湾への上陸を諦めたとされる。他方で、伊予の御家人河野通有は、
          防塁を背に浜へ躍り出て防戦の構えをとったため、「河野の後築地」と称えられた。
           元寇後も、鎌倉幕府が滅亡する14世紀前半までは、防塁は外国に対する備えとして維持された。
          慶長五年(1600)に黒田長政が筑前52万石の大名となると、防塁の石材は福岡城の築城に利用
          された。

          
       <手記>
           小中と学校で習うので誰でも覚えているであろう「元寇防塁」ですが、この呼び名は大正時代に
          中山平次郎博士が論文のタイトルに用いて定着したもので、同時代の史料では単に「石築地」と
          呼ばれています。大部分は失われましたが、その長大さゆえか今でも断続的に残っていて、その
          うち10か所ほどが国の史跡に指定されています。
           指定区域のすべてを訪ねたわけではありませんが、西は生(いく)の松原から東は百道(ももち)
          まで4か所を歩いて見て回りました。そのなかで最も見応えがあったのは、下山門駅から歩いて
          5分とアクセスもよい生の松原です。ここには、当時の石塁の残存部分を当時の推定の高さまで
          復元した防塁が展示されています。工法・規模の差こそあれ、これほどの石垣を20kmにわたって
          わずか3か月で築いたというのは、日本でも有数の土木事業といえるのではないでしょうか。また、
          埋め立ての進んだ市街地に対して今なお防塁の目の前に砂浜が伸び、当時の雰囲気をトレース
          できるのもおすすめポイントといえます。また、このエリアを担当した御家人の1人が、『蒙古襲来
          絵詞』で知られる竹崎季長なのだそうです。
           小戸公園内の向浜の防塁は、戦後の台風で崩壊したとのことで説明板のみ。その東の団地内
          にある防塁は、埋め戻されてこんもりとした丘に石碑と説明板が立っています。地下鉄藤崎駅を
          降りてすぐの百道の防塁は、石塁遺構の最上面が地表に露出した状態で保存されています。
          その300mほど東にも、石塁が露出展示されている箇所があるそうですが、このときは見そびれて
          しまいました。


           
 生の松原の石碑。
生の松原の復元防塁。 
 同上。
 手前が残存石塁、奥が当時の高さに
 復元された石塁。
生の松原のようす。 
 同じく生の松原の浜辺。
向浜の防塁跡。 
 向浜東の団地内の防塁跡。
百道の防塁跡。 


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