福岡城(ふくおか)
 別称  : 舞鶴城
 分類  : 平山城
 築城者: 黒田長政
 遺構  : 櫓、門、天守台、石垣、堀、井戸
 交通  : 福岡市営地下鉄大濠公園駅徒歩5分


       <沿革>
           慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの論功行賞により、黒田長政・孝高父子が筑前52万3千石に
          じられた。黒田父子は前主小早川氏の居城名島城に入ったが、城地が狭小であるとして博多の
          西の警固村福崎に新城の築城を計画した。工事は翌六年(1601)より開始され、普請奉行には
          黒田二十四騎の1人野口一成が任じられた。
           箱崎の東麓には、かつて平安時代の太宰府の迎賓館である鴻臚館があり、西は草ヶ江と呼ば
          れる入り江であった。この草ヶ江の湾口を埋め立てて外濠としたのが、現在の大濠公園である。
          また、名島城や立花山城などから石材や建材が転用されたといわれる。城は慶長十二年(1607)
          に完成した。福崎の地は、黒田氏の父祖所縁の地である備前福岡にちなんで「福岡」と改名され
          たが、正確な改称時期については今なお議論がある。
           今日に伝わる絵図には一度も天守が描かれていないことから、福岡城には天守台はあれども
          天守は築かれなかったものと考えられてきた。しかし、近年になって天守の存在をうかがわせる
          状況証拠が発見され、その存否が再び議論の的となっている。
           長政以後、黒田家は11代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           福岡城は、一見平城のように思えますが、南から延びる福崎丘陵の先端に位置しています。
          根元まで水濠で断ち切る大規模な作事によって、主城域は台地から切り離され、水に囲まれた
          浮城のようになっています。現在は、北辺の濠を除いては埋まってしまっていますが、それでも
          悠々と水をたたえる北堀や大濠公園の池に、その名残を見ることができます。北辺の濠の東端
          地下鉄通り沿いには地下へ下りる階段があり、発掘された石垣が土曜限定で公開されています
          (私は見られませんでした)。
           北辺からは、かつては東西2本の橋から城内に入るようになっていて、このうち西側の下の橋
          大手門は上層を欠いた姿で残っていましたが、平成十二年(2000)に不審火で焼失しました。
          その後、同二十年(2008)に上層を考証で補った形で復興され、今に至っています。門脇には、
          伝潮見櫓と呼ばれる二層櫓があります。しかし、この場所は本来重層櫓が建つような場所では
          なく、櫓のサイズも合っていません。またこれまでは、この櫓はその名のとおり主城域北西隅に
          あった潮見櫓とされてきました。ところが、近年の調査によって、本物の潮見櫓は崇福寺の仏殿
          となっていることが判明し、この櫓は本丸裏門脇の古時打櫓ではないかと考えられています。
          崇福寺には、本丸表門も山門として移築されています。
           城内にはこのほか、南丸多聞櫓、祈念櫓、名島門、旧母里太兵衛邸長屋門が建造物として
          残っています。このうち当時のまま残っているのは南丸多聞櫓のみで、祈念櫓は一度払い下げ
          られたのち元の場所に再び移築されたもので、名島門と長屋門は城下の家臣屋敷にあったもの
          を移築しています。名島門は、名前のとおり旧名島城門とされています。
           本丸天守台は、つい数年前まで雑草に覆われていたようですが、私が訪れたときにはかなり
          綺麗に掃除され、展望台として整備されていました。背後には福岡城天守「復元」を目指す団体
          運動があるようで、五層の天守の設計案まででているそうですが、今のところ「あったかもしれ
          ない」という状況的推測に過ぎず、仮にあったとしても設計図も絵図もないのですから、さすがに
          現下での天守建造は暴論だろうと思います。個人的には、福岡城天守台には礎石まで配されて
          いるので実際に天守が載っていた可能性は十分あるでしょうし、そうだとすれば、軋轢があった
          とされるお隣の細川家の小倉城天守が四層五階だったことを鑑みれば、五層の天守というのも
          妥当な推測だとは思います。
           本丸の東麓には、かつてのダイエー・ホークスの本拠地であった平和台球場がありましたが、
          撤去されて更地となっています。この一帯は、大正十五年(1926)に中山平次郎博士が鴻臚館
          の所在地と目したところです。球場撤去にともなって発掘調査したところ、鴻臚館跡とみられる
          遺構が続々と検出されました。それ以前から、部分的な調査によってほぼ確定はしていたよう
          ですが、博士の提言から1世紀近くを経て、ようやく球場跡の一画に資料館が設けられ、検出
          された遺構が公開されています。
           余談ですが、福岡城を訪れるなら、ぜひ崇福寺も訪ねることをおすすめします。地下鉄千代
          県庁口駅から徒歩10分ほどです。本丸表門を移築したとされる山門は、普通ならお寺風に改築
          されてしまうところまんま城門で、保存状態もとても良好です。奥に進んで唐門は、名島城から
          の移築とされ、1寺で2城の遺構に触れることができお得といえます(笑)。山門前に3、4件ほど
          並ぶ門前の小店がどれも風情があり、私は一番端の饅頭屋で、おやつを数点いただきました。

           
 福岡城北辺の水濠。
大濠公園のようす。 
 下の橋大手門(復元)と伝潮見櫓。
名島門。 
 旧母里太兵衛邸長屋門。
南丸多聞櫓。 
 本丸鬼門を守る祈念櫓。
天守台石垣。 
 天守台登壇口の鉄御門跡。
大天守台を見上げる。 
 大天守台から続きの石垣(通称中天守台)を望む。
 天守復元案ではここに天守と接続した続櫓があったとしています。
天守台からの眺望。 
 本丸表門跡。
本丸裏門跡。 
伝潮見櫓は左側の石垣に乗っていた古時打櫓と推測されています。 
 本丸南面石垣。
鴻臚館跡周辺現況(平和台球場跡)。 
 崇福寺山門として残る本丸表門。


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