牛王山遺跡(ごぼうやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : 東武東上線和光市駅よりバス
       「新倉郵便局」バス停下車徒歩1分


       <沿革>
           旧石器時代から中世までの複合遺跡である。とくに、弥生時代の環濠とみられる
          二重ないし三重の堀跡が検出されている。住居跡や発掘遺物の年代から、同時代
          中期から後期にかけて、環濠集落として存在していたものと推定されている。
           『新編武蔵国風土記稿』では、牛傍(王)山を新羅の王子が住んだ「新羅王居跡」
          に比定している。『続日本紀』には、天平宝字二年(758)、帰化した新羅の僧32人、
          尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、「新羅郡」を置いたとある。新羅郡
          は、後に新座郡と改められ、志木や新倉、白子といった地名も、新羅からの転訛と
          される。このことから、牛王山は新座郡衙の比定地ともされるが、8世紀ごろの遺物
          としては一般的な住居跡のみで、大規模な建物跡は見つかっていない。


       <手記>
           牛王山は、荒川の氾濫原が目の前に広がるほぼ独立した小丘です。上の地図の
          緑丸で示したあたりに、2013年に立てられたばかりの新しい説明板があります。それ
          によると、より急斜面となっている北辺を背に二重の薬研堀が半円状にめぐっていた
          そうです。西側の中腹に狭間稲荷神社があり、その背後あたりにも堀跡が部分的に
          検出されており、これがさらに外側をめぐる3重目の環濠であった可能性が指摘されて
          います。ただ、この堀は二重環濠よりやや離れた位置にあり、どのような性格のもの
          であったかは留保が必要と思われます。
           現在、遺跡はすべて埋め戻されて畑地や住宅地となっており、地表には何も残って
          いません。
           さて、気になる「新羅王居」伝説についてですが、そもそも『続日本紀』の記述をみる
          限りでは、新羅人ではあるものの王族とは一言も書いてありません。一般人を集めて
          住まわせたというだけなら、一般的な環濠集落(環濠が残っていたかは分かりません
          が)でも十分なようには感じられます。しかも「閑地」とまで言い切っているのですから、
          豪族館や郡衙級の建物が用意されたとは考えにくいようにも思います。したがって、
          王居や郡衙はともかく、即席の「新羅人村」があった可能性は残しておいてもよいの
          ではないかと考えます。

           
 遺跡説明板。
 
遺跡現況。 
左手の住宅前から道路を横切って右手にかけて、 
二重環濠跡が検出されました。 
 
 牛房山からの眺望。
西側中腹にある狭間稲荷神社。 
社殿左手付近から、もう1つ堀跡が見つかっています。 


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