ハンブルク ( Hamburg ) |
|
別称 : ハンマブルク | |
分類 : 都城 | |
築城者: 不明 | |
交通 : ハンブルク地下鉄U3線ラートハウス駅徒歩3分 (ドームプラッツ) |
|
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 6世紀までには、ザクセン地方からの移住者により町が形成されていた。8世紀中に町を囲う 濠と城壁が築かれ、交易を主とする城塞都市となっていたと推測されている。810年に、カール 大帝により教会と司教区が置かれ、初めて「ハンマブルク(Hammaburg)」の名が史料に登場 する。845年にはバイキングが襲来し、町は灰燼に帰したとされる。略奪はその後も続いたため、 ハンマブルクに置かれていた司教座は848年にブレーメンに移された。 10世紀後半、ハンブルク・ブレーメン司教のアーダルダークがハンブルクに新しく城を築き、 都市の復興に取り組んだ。1035〜43年にかけて、大司教アーダルブラント・フォン・ブレーメンは ハンブルクのマリア大聖堂をこの地域では初めてとなる石造に改めた。同じころに、町も城壁と 12の防御塔で固められた。アーダルブラントは大聖堂の南側に居館を建て、彼と対立していた ハンブルクの世俗支配者であるザクセン公ベルンハルト2世も、同時期に現在の聖ニコライ教会 付近に新城(Neue Burg)を築いた。 11世紀後半には、ハンブルクは大司教側の旧市街とザクセン公側の新市街に分裂していた。 1066年と1072年にはスラブ人勢力がハンブルクを襲い、街は甚大な被害を受けた。大司教は 再びブレーメンへ移り、ハンブルクの支配権はザクセン公の手に渡った。ハンブルクの城には ザクセン公ビルング家の庶流とされるハインリヒが入り、ハンブルク伯を称した。ハインリヒの子 ゴットフリートは、1110年にメクレンブルクのスラブ人勢力に殺害され、ハンブルク領は後に神聖 ローマ皇帝となるザクセン公ロタール3世により、初代シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯 アドルフ1世に与えられた。アドルフ1世はアルスター湖を初めて堰き止めるなど、堤防を築いて 町の土地を確保したが、その後の歴代伯爵はハンブルクにあまり注力せず、代わりに商人街 が発達した。 1189年、十字軍に協力した見返りとして、皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)はハンブルク市 に特許状を与えた。それにより、@北海までの通行関税免除A市民はハンブルク防衛以外の 軍役を負わないことBハンブルクの半径15km以内に新たな城を築かないことCハンブルク市民 は独自に牛馬を飼い、魚を獲り、木を伐って開墾してもよいことの4点が約束された。1190年には 大司教系のアルトシュタットと世俗系のノイシュタットの双方が議会を選出し、1200年には両市 がそれぞれ市庁舎を建設して自立路線を強めた。 1201年、デンマーク王ヴァルデマー2世が攻め寄せてハンブルクを占領し、アドルフ1世の孫の アドルフ3世を捕えた。デンマークの支配の下でハンブルクの新旧2つの街はお互いに接近し、 やがて1つに統合された。1227年、北ドイツ諸侯とハンブルク市民の連合軍はボルンヘーフェト の戦いでヴァルデマー2世を撃破した。アドルフ3世の子アドルフ4世が再び支配権を得たが、 彼は13世紀半ばにそれを放棄し、ハンブルクは当時としては稀な完全に自由な都市となった。 これを機に、市街全域を囲う新たな城壁が建設された。また、リューベックやブレーメンと都市 同盟を結び、ハンザ同盟の基礎が出来上がったのもこのころである。15世紀に入るころには、 衰退し始めたリューベックに代わりハンブルクがハンザの盟主となった。 1616〜25年にかけて、オランダの建築家を招聘してハンブルクに新たな城壁が築かれた。 これにより、ハンブルクは同時期に勃発した三十年戦争での直接的被害を免れ、戦後に自由 都市としての地位を強化することができた。 1803年にイギリスがフランスに宣戦布告してナポレオン戦争が勃発すると、ハンブルクは 中立を示すために都市の防衛施設を破棄した。しかし、ナポレオンは1806年にハンブルクに 兵を進め、1814年まで占領状態が続いた。1815年のウィーン会議によって主権を取り戻し、 ドイツ連邦に参加。1871年にドイツ帝国が成立すると、そのなかの1都市として組み込まれた。 <手記> ドイツ第2の人口をもつ最大の港町ハンブルクですが、港湾都市という性格のためか都城の 遺構はあまり多いとは言えません。地名だけなら、シュタイントーアやミラーントーアといった 門跡(トーアはドイツ語で門の意)にちなむ駅や広場があります。 そんなハンブルクで城好きなら絶対に訪れてほしいところが、聖ペーター教会のすぐ南側に あるドーム広場(ドームプラッツ)です。ここは、中世までハンブルク司教区の中心だったマリア 大聖堂があったところで、近年発掘調査が行われたようです。その結果、木造だった初期の 大聖堂の柱穴やそれを囲む堀跡がモニュメントとして地表復元されています。それを見ると、 教会の周りにくるっと円形の堀と城壁をめぐらした簡素な城砦だったようで、まさにハンブルク の始まりの地といえる場所です。 旧市街の北西辺には、近世の外郭稜堡の跡が一部残り、水と緑の公園となっています。 地下鉄のシュテファンプラッツ駅か鉄道のダムトーア駅で降りると良いでしょう。ほかには、 ノイエブルク(新城)の名前の付いた通りが聖ニコライ教会の東側を走っています。 |
|
ドーム広場の堀跡のモニュメント。 | |
同上。 | |
同じく白いベンチ状のモニュメントは マリア大聖堂の柱穴跡。 |
|
ダムトーアの稜堡外堀と土塁。 | |
同上。 | |
ノイブルクの聖ニコライ教会。 |