リューベック
( Lübeck
 別称  : ブク城
 分類  : 都城
 築城者: シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯アドルフ2世
 交通  : リューベック中央駅徒歩10分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           現在のリューベックからトラーヴェ川を4kmほど下ったシュヴァルタウ川との合流点に、
          前身となるリウビケ(Liubice)という入植地があった。今日ではアルト・リューベック
          (古リューベックの意)とも呼ばれるこの集落は819年までには存在していて、周囲を
          円形の堀と塁に囲まれていた。同じころ、ハンザ博物館やブルク門があるトラーヴェ川
          とヴァーケニッツ川の合流点に、ブク城(Burg Bucu)が築かれたと推測されている。
           11世紀にはいずれもスラブ系オボドリト族の支配するところとなっていたが、1066年
          に君主となったクルートはリウビケよりもブク城を重視し、城砦および交易拠点として
          拡張した。1138年、リウビケは同じスラブ系のラーン人に襲撃され、破壊された。
           スラブ人勢力間の内紛に乗じ、1143年にシャウエンブルクおよびホルシュタイン伯
          アドルフ2世がブク城を取り立てた。これが今日のリューベックのはじまりとされる。
          1158年、アドルフ2世は建設間もないリューベックをザクセン公ハインリヒ3世(獅子公)
          に譲渡し、ハインリヒ獅子公もまた都市の開発を推進した。
           リューベックは発足当初からバルト海交易の商業都市として急速に発展し、1163年
          には司教座と大聖堂が設置された。1226年には早くも帝国自由都市に昇格している
          ことから、いかにリューベックが北ドイツ経略の要衝と見られていたかがうかがえる。
           1241年、リューベックは当時同じく自立路線を歩んでいたハンブルクと都市同盟を
          結び、ハンザ同盟の原型が形作られた。ハンザが東方へ拡大すると、ゴトランド島の
          ヴィスビューがその中心都市とされたが、13世紀末にはリューベックが事実上の盟主
          となった。
           1361年にヴィスビューがデンマークに占領されると、ハンザ同盟は戦端を開いたが、
          リューベック市長ヨハン・ヴィッテンボルク率いるハンザ都市連合艦隊は翌1362年に
          デンマーク艦隊に敗れた。これを受けて、1367年にハンザ都市のほかネーデルラント、
          プロイセンなどの諸都市も含めたケルン同盟が結成され、その盟約においてリュー
          ベックがハンザの盟主であることが正式に明記された。
           16世紀に大航海時代が到来すると、ヨーロッパの海洋交易のメインルートが大西洋
          および北海へ移り、リューベックは衰退してハンブルクが大きく発展した。17世紀前半
          の三十年戦争の頃には、ハンブルク・リューベック・ブレーメンの3都市以外のハンザ
          都市は、同盟の義務を果たすことも加盟による恩恵を享受することも難しくなっていた。
          同世紀後半までには、ハンザは3都市による緩やかな同盟としてのみ機能していた。
           フランス革命戦争後の1803年、リューベックは混迷する情勢に備えて都市の要塞を
          強化した。同年にナポレオン戦争が勃発し、1806年のイエーナ・アウエルシュタットの
          戦いでプロイセン軍がフランス軍に大敗すると、ブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍
          はリューベックに籠もっての再起を打診した。リューベックは中立を望んだものの、自前
          では数百ほどの兵しか持っていなかったために断りきることができず、プロイセン軍は
          リューベック市内に進駐した。
           11月6日早朝、リューベックを包囲したフランス軍は南のミューレン門と北のブルク門
          への攻撃を開始し、「リューベックの戦い」の火蓋が切られた。この2門はリューベック
          において濠が二重になっていない弱点であった。フランス軍5万3千に対し、籠城方は
          2万1千人ほどといわれる。ブルク門の守備を任されていたブラウンシュヴァイクおよび
          エールス公フリードリヒ・ヴィルヘルムは、防衛上の急所であるブルクフェルト(ブルク
          門前の平地)を確保するようにブリュッヒャーやシャルンホルスト(後のプロイセン参謀
          総長)に厳命されていたにもかかわらず、城壁に兵を張り付かせたまま出撃させること
          はなかった。これを見たフランス軍のベルナドット元帥(後のスウェーデン王)は逸早く
          ブルクフェルトに兵を進め、ブルク門に猛攻を加えた。
           フリードリヒ・ヴィルヘルムはブルク門を死守するようにも命じられていたが、正午過ぎ
          には早くも後退命令を出し、フランス軍の市内突入を許した。それでもプロイセン軍は
          市街戦で何度かフランス軍を押し戻したが、前後に敵を受けてミューレン門も支えきれ
          なくなり、リューベックはわずか1日の戦闘で陥落した。
           シャルンホルストは捕虜となったが、敗戦の主因であるフリードリヒ・ヴィルヘルムは
          小舟で脱出し落ちのびた。ブリュッヒャーは8千ほどの兵をまとめて西のホルステン門
          から脱出した。トラーヴェ川河口の港トラーヴェミュンデから海路での帰国を図ったが、
          数日前にスウェーデン兵が逃走する際にめぼしい船はすべて使われてしまっていた。
          北に隣接するデンマークは当時中立を表明していたため、進退に窮したブリュッヒャー
          らは降伏を余儀なくされた。この戦いによって、リューベックの市街は大きなダメージを
          受けた。
           1815年のウィーン会議でリューベックは自由ハンザ都市として主権を回復したものの、
          1871年にドイツ帝国が成立するとその中の1州として組み込まれた。これにより、国家
          と同等の主権は失われた。同じ自由ハンザ都市のハンブルクとブレーメンが今日まで
          州とての自立は保っているのに対し、リューベックは1937年にプロイセン州に併合され、
          以後今日まで州内(戦後はメクレンブルク=フォアポンメルン州)の一都市に甘んじる
          こととなった。


       <手記>
           「ハンザの女王」と謳われたリューベックは、今も北ドイツ有数の観光地です。街の
          シンボルであるホルステン門は旧50ドイツマルク紙幣の図柄にも使われていました。
          もともとはトラーヴェ川とヴァーケニッツ川が合流する半島状の地形でしたが、運河の
          開鑿により周囲を完全に水に囲まれた中洲のようになっています。
           市内への入り口は大きく西のホルステン門、北のブルク門、南のミューレン門、東の
          ヒュクスター門の4か所に絞られ、このうち前二者が現存しています。どちらも15世紀
          の建造ですが、表の顔としてあまりに有名なホルステン門よりも、リューベックのはじ
          まりの場所であるブルク門の方が、個人的には城跡らしさがあって好みです。
           リューベックで最も古い城壁は、旧市街東辺のヴァーケニッツマウアー(マウアーは
          壁の意)という通り沿いにあります。この通りは観光のメインルートからは外れている
          こともあり、意外に古く素朴な雰囲気を残しています。城塞とは関係ありませんが、
          この通りにはほかにも旧醸造所や旧修道院の中世らしい建物が点在しています。
           南端のミューレン門は残っていませんが、濠の一つ手前の旧稜堡線沿いに、藪に
          埋もれてカイザー門というなかなか大きな櫓門がひっそりと建っています。この門は
          もともとは防御塔でしたが、1900年にエルベ・リューベック運河が開通したのを記念
          して、船着場から市内への通用門として改築されたものです。
           このカイザー門からホルステン門にかけては外角の稜堡がもっともよく残っていて、
          観光ルートからもさっぱり外れた静かな緑の公園となっています。土塁上の散策路
          からは、旧市街の赤屋根や大聖堂、聖ペトリ教会、聖マリア教会といった街並みを
          眺めることができます。
           リューベックの一般向けの見どころが旧市街の中心部に集まっているのに対して、
          ホルステン門を筆頭に都城としての遺構は基本的に外周に散在しています。
  
 聖ペトリ教会の尖塔から望むホルステン門。
ホルステン門脇の旧倉庫街。 
 ブルク門。
ブルク門脇のバッテリー状の建物。 
このあたりが旧ブク城の中心部と考えられています。 
 東辺のリューベック最古の城壁。
同じく東辺の城壁と塔跡。 
 カイザー門。
内堀のミューレン池と大聖堂を望む。 
 西辺外角の濠と稜堡跡。
稜堡の土塁。 
 同上。
旧市街中心部の市庁舎とマルクト(市場)の広場。 


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