八朔陣屋(はっさく)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 土塁か
 交通  : 横浜市営地下鉄川和町駅徒歩20分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』に「極楽寺持の観音堂は陣屋敷にあり」とあり、『日本城郭大系』
          によれば、観音堂は現在の世尊院にあたるとされる。陣屋の主の名については、『記稿』に
          おいても記載されていない。
           永禄二年(1559)に編纂された『小田原衆所領役帳』によれば、笠原藤左衛門および小野
          與三郎が八朔に所領を得ていた(後者については代官とある)。また、北八朔村鎮守の十二
          神社は、慶安二年(1649)に領主久世大和守によって造営されたとされる。年代の合う大和
          守として、老中も務めた久世広之がいる。広之は、同元年(1648)に5千石の加増を受けて
          1万石の大名となっている。また、久良岐郡本牧にも加増を得ており、本牧の十二天を勧請
          したという十二神社の縁起と合致する(ただし、広之の本牧加増は寛文二年(1662)のことと
          される。
           八朔陣屋はこれら3者のうちいずれかによって築かれたものと推測されるが、詳細は不明
          である。


       <手記>
           旧北八朔村の北端付近に位置する世尊院境内が、陣屋跡といわれています。八朔地域の
          大部分を占める丘陵の尾根先に築かれていますが、ほぼ山麓なので要害性はほとんど認め
          られません。
           境内の周囲は人工の切岸になっており、陣屋があったとすれば、土塁とみるべきと思われ
          ます。その他に、陣屋と結び付けられそうなものはとくにありません。境内自体は、狭いとも
          広いともいえない微妙な規模です。居館とするには少々違和感を覚える広さと形状なので、
          飛び地の代官所というのが一番しっくりくるように感じます。したがって、前出の3人のうち、
          八朔の他に本領のある笠原氏か久世氏が築いたものと推測されます。

           
 八朔陣屋比定地遠望。
比定地である世尊院。 


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