畠山館(はたけやま)
 別称  : 畠山重忠館
 分類  : 平城
 築城者: 畠山重能
 遺構  : 土塁、井戸
 交通  : 秩父鉄道武川駅よりバス
       「重忠公園前」バス停下車


       <沿革>
           坂東八平氏の1つ秩父平氏惣領秩父重綱の長男重弘の嫡子重能は、畠山荘に
          入植して畠山氏を称した。秩父氏の家督は重弘の弟重隆が継いでいたが、これに
          不満をもった重能は、久寿二年(1555)に源義朝と結んで重隆とその婿源義賢を
          討った(大蔵合戦)。したがって、館の建造はこの年以前のことと推測される。
           重能の嫡男重忠は、治承四年(1180)に源頼朝が挙兵すると、当初は平家方で
          戦ったものの、ほどなく源氏方に帰参した。重忠は怪力をもって知られ、大串重親
          を宇治川の対岸まで放り投げたり、一ノ谷の戦いでは鵯越の急坂を馬を背負って
          駆け降りるなどの逸話が『平家物語』にみられる。
           元久二年(1205)、源頼朝死後の幕府内権力抗争の一環として、重忠は北条氏
          の讒訴と追討を受け、二俣川の戦いで討ち死にした(畠山重忠の乱)。重忠の妻は
          北条時政の娘であったが、戦後足利義氏の庶兄義純に再嫁し、畠山氏の名跡と
          所領を継承した。これにより、畠山氏は平姓から源姓へと転じた。源姓畠山氏は、
          室町時代には三管領の1つとして勢力を拡大したが、鎌倉時代を通じて重忠の館
          を利用し続けたのか、別に居館を構えたのかは定かでない。
           

       <手記>
           畠山館跡は、現在その名も明快な「畠山重忠史跡公園」となっています。公園内
          には鵯越の故事に因んで馬を背負った勇壮な重忠の像が建っており、地元での
          重忠人気のほどがうかがえます。
           他方で肝心の館跡については、鎌倉時代初期のものですから当然といえば当然
          ですが、遺構には乏しいといえます。一応、諸資料には土塁の痕跡が残っていると
          あります。重忠の墓の建つ基壇やその周囲は若干の高まりとなっており、あるいは
          これが土塁跡ということかと思われます。また、公園の北東隅付近には、重忠産湯
          の井戸跡が残っています。
           全体として、残存状況だけみればここまで公園化するほどのものではないように
          思えるのですが、そこには鎌倉武士の鑑と謳われる重忠の遺徳があるのでしょう。
          逆に、室町幕府の三管領まで務めた源姓畠山氏の故地でもあるのに、こちらの方
          についてはまったく触れられていませんでした。

           
 畠山重忠墓および館跡の石碑。
重忠墓(覆堂の中)を望む。 
 
 墓周囲の高まり。土塁跡か。
重忠産湯の井戸。 
 畠山重忠像。


BACK