早川城(はやかわ)
 別称  : 早川城山
 分類  : 平山城
 築城者: 渋谷重国か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀、土橋など
 交通  : 小田急線海老名駅よりバス。「城山公園」バス停下車


       <沿革>
           渋谷氏の庶流早川氏によって築かれたものと考えられている。『渋谷氏系図』によれば、
          渋谷庄司重国の次男高重が早川次郎を名乗っており、重国か高重の代に高座郡渋谷庄
          から早川へ進出し、城館を築いたものとみられる。
           渋谷氏は高重が継いだが、建暦三年(1213)の和田合戦で和田義盛に属して戦死した。
          高重の死を受けて、高重の兄吉岡太郎光重が渋谷氏を継いだ。その後、光重の次男実重
          が早川次郎を名乗っている。
           宝治二年(1248)の宝治合戦の戦功により、渋谷一族は薩摩地頭職に任じられ、実重も
          薩摩国へ下向した。実重は薩摩で東郷氏を称した。
           今に残る早川城の構造は、少なくとも室町時代までは下るものとみられ、また現地からは
          14世紀に作られたとみられる火舎片が発見されている。そのため、早川氏の下向後に早川
          一帯を支配した者がいたと推測される。現地の説明では、渋谷氏の一族が残って支配を
          続けたものと推定している。
           天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ入ると、この地に石川春久・重久父子が陣屋を
          構えたとされる。石川氏は渋谷氏の末裔とも伝えられているが、詳細は不明である。


       <手記>
           城跡一帯は城山公園として整備されています。公園化に伴い、平成元〜六年(1989〜
          94)にかけて学術調査が行われ、多くの遺構が見つかっています。そのため、史料には
          まったくといってよいほど現れない反面、城のおおよそのようすは明らかとなっています。
           早川城は、目久尻川とその支脈が形成する舌状台地を利用した城です。台地の頸部を
          空堀と土橋で切断し、単郭を基調とした縄張りとなっています。東側は急峻な沢谷戸と
          なっていて、こちらは土塁と空堀だけで対応していますが、斜面がやや緩やかな南面と
          東面には複数の腰曲輪ないし帯曲輪が設けられています。公園化はされているものの、
          これらの遺構は説明付きで示されていて、保存状態は良好であるといえます。
           ちなみに、東郷氏の末裔には示現流開祖の東郷重位や、日本海海戦で活躍した東郷
          平八郎がいます。早川城主郭南西端には櫓台と伝わる塚があり、その上に東郷平八郎
          の顕彰碑が建てられています。

           
 早川城址入口の案内。
空堀、土塁と土橋(中央奥)。 
 主郭の櫓台。
主郭のようす。 
 腰曲輪のようす。


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