寺部城(てらべ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 名鉄蒲郡線西幡豆駅徒歩10分


       <沿革>
           永正十一年(1514)に、小笠原定政が早川三郎から寺部城を奪ったとするのが初出とされる。
          築城年代や築城者、早川氏の出自については定かでない。定政は小笠原氏流伴野氏の後裔
          で、鎌倉時代に小笠原氏の嫡流であった伴野長泰が弘安八年(1285)の霜月騒動で敗死した
          際、三河国太陽寺荘に逃れた三男泰房の子孫とされる。ただし、泰房から定政までのつながり
          は詳らかでなく、幡豆小笠原氏の出自には異説もある。幡豆小笠原氏は、今川氏の勢力が
          三河に伸びるとその傘下に入った。
           永禄六年(1561)、桶狭間の戦いを機に独立した松平元康(徳川家康)が寺部城を攻撃した。
          定政の孫の広重は、当時最新鋭の武器だった鉄砲を数丁所有しており、谷筋に伏兵を配して
          発射させたところ、東の浜辺から攻め寄せた松平軍は、轟音に驚いて退いたとされる(走り付け
          の戦い)。しかし、広重に徹底抗戦の意志はなく、まもなく本多忠勝の仲介で家康に服属したと
          される。以後、幡豆小笠原氏は徳川氏の船手衆として活躍した。
           天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、広重の子信元もこれに従い、上総国周淮
          郡2500石を与えられた。寺部城はこのときに配されたものと思われるが定かでない。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、信元は志摩の九鬼水軍の押さえとして知多半島
          の師崎を守ったとされる。このとき、旧領の寺部城を拠点としたとも考えられるが、確証はない。
          寺部城が取り立てられたとすれば、最終的な廃城は同年とみられる。


       <手記>
           寺部城は、小野ヶ谷川の河口に東から突き出た小峰を利用した城です。川を挟んで西500m
          ほどのところには、同じ幡豆小笠原氏の分流の欠城があり、両者は一体の関係にあったものと
          推察されます。
           すぐ南には寺部港と三河湾が広がり、水軍城としての性格をよく表しています。まだ珍しかった
          鉄砲を所有していたというあたりも、幡豆小笠原氏が海運で利益を得ていたということの証左と
          いえるでしょう。
           北麓に登城口があり、入ってまもなく尾根筋を断ち切る豪快な堀切が現れます。居館は海に
          望む南麓にあったようで、こちら側にも草に半ば埋もれた登城路の階段があります。
           縄張り自体は、主郭から梯郭式に曲輪が連なる比較的単純なものですが、北西側に大きな
          竪土塁を伴った竪堀があります。これは家康期の城郭によくみられる特徴なので、家康時代に
          大きな改修が行われたことを示しているといえるでしょう。
           規模としては大きいとはいえませんが、家康の第二線くらいに位置する重臣層の居城モデル
          として、とても参考になる城跡と思います。ちなみに同じ三河国の豊田市にも同名の寺部城
          ありますが、どう呼び分けているのかは分かりませんでした。

           
 主郭のようす。
主郭の土塁。 
 南側の眺望。
二の丸のようす。 
 二の丸下の竪堀。
竪堀に伴う竪土塁。 
 南側の腰曲輪。
腰曲輪脇の竪堀。 
 付け根側の堀切。
堀切に伴う城外側の土塁。 


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