寺部城(てらべ)
 別称  : 渡辺家屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 鈴木重時
 遺構  : 土塁
 交通  : 名鉄豊田市駅からバスに乗り、
      「豊田北高前」下車徒歩5分


       <沿革>
           文明年間(1469〜87)に、鈴木下野守重時によって築かれたとされる。重時は、平安末期に
          三河国矢並に移り住んだ鈴木重善の後裔で三河鈴木氏の一族とされるが、系譜上の繋がり
          は定かでない。他の三河鈴木氏諸家よりかなり早い段階で分家したものと思われ、重時以前
          から、付近に居を構えていた可能性も考えられる。
           寺部鈴木氏は、同じく新興勢力の松平氏とたびたび争ったが、16世紀中ごろに今川義元の
          勢力が伸長すると、これに従った。永禄元年(1558)、鈴木重辰は尾張の織田信長に寝返り、
          今川氏麾下の松平元康(徳川家康)に寺部城を攻められ、討ち死にした。この戦いは、家康
          の初陣として知られる。寺部鈴木氏は滅亡は免れたらしく、いずれかの時期に寺部城主に
          復帰している。ただし、城主の名は重教や重政、重明など判然とせず、また重辰との関係も
          はっきりしないなど、家康初陣以降の寺部鈴木氏の来歴には混乱が見られる。
           永禄三年(1560)の桶狭間の戦いを機に家康が独立すると、寺部鈴木氏は徳川氏および
          その同盟者である織田氏と対立することとなった。同九年(1566)、寺部城は織田家重臣
          佐久間信盛に攻められて落城し、寺部鈴木氏は没落した。寺部城には、信盛の与力の余語
          勝久が入った。天正八年(1580)に信盛・信栄父子が織田家を追放されて以降の、寺部城の
          扱いについては詳らかでない。
           慶長15年(1618)、尾張藩徳川家家老の渡辺守綱(半蔵)が1万4千石を与えられ、寺部城
          の跡に屋敷を構えた。以後、渡辺半蔵家が13代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           寺部城は、矢作川が緩やかにカーブする内側の、河岸の角を利用した城です。主郭跡は
          公園化されていて、住宅地の生活道路に面して石碑や説明板が立っています。とくに石碑
          は櫓台と思われる土塁の上にありますが、中世からの遺構なのか、渡辺家の屋敷に伴う
          ものか、はたまた後世の造作なのかは分かりません。ただ、わざわざ盛ったとも思えない
          ので、少なくとも江戸時代にはあったのでしょう。
           園内には屋敷の礎石が残るものの、中世の遺構は多いとは言えません。唯一はっきりと
          見て取れるのは、西辺の土塁です。城内側から見るとさほど高くありませんが、河岸側は
          しっかりと削った切岸になっています。
           南辺は、石碑の立つ塚から段差が土塁状に伸びています。空堀の跡とも思えますが、
          やはり中世由来のものかは定かでありません。その南西には守綱神社があり、おそらく
          副郭ないし外郭だったものと思われます。その西辺には、小さな谷が切れ込んだ、堀状
          の地形が認められます。
           全体的に、家康初陣の故地や高名な槍半蔵の屋敷跡というのに、公園としても史跡と
          しても中途半端な状態のように感じました。守綱神社も、かなり傷んでいるように見受け
          られたので、少し整備して観光資源として活用されてはいかがかな、と思います。

           
 城址碑
城址碑の立つ塚。櫓台か。 
 説明板。
主郭のようす。 
 西辺の土塁。
土塁外側の切岸。 
 主郭南辺。土塁ないしから堀跡か。
守綱神社。副郭跡か。 
 その西辺の堀状の切れ込み地形。
挙母城跡に移築された、渡辺家屋敷の又日亭。 


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